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2012年3月28日 (水)

小説木幡記:社会人になるときの恐怖

Simg_7537 今はもう大昔のことだった。四月一日から社会人になることが決まり、友人達と三人組んで自動車で旅をした。その旅のこともいつも思い出されるが、それよりも、一日から毎朝9時前に職場に行って、夕方の5時まで自由に出入り出来なくなるという情景を想像し、余は恐怖に震えていた。
 毎日毎日、余の時間、八時間ほどを何かにわたして、その分のお返しとして月の半ばにお金をもらった。3万円だった。
 1万円を貯金し(すごい割合だな)、1万円を食費として実家にわたし、残り1万円でガソリン代と煙草代に使っていた。ものすごく貧しさを味わった。余の同年代の友人たちは、4~5万円の給与をもらっていたような記憶がある。
 ~
 そういう、八時間も職場に拘束されることを想像し、九州の果てをパブリカ1000で走りながら「よくまあ、みんな、我慢できるなぁ」と真剣に驚いていた。
 それからウン十年~、よくまあ耐えてこられたなぁと、自笑。
 ~
 だから。
 学生時代から、アルバイトをしている人をみると、不思議な感覚に陥る。つまり。アルバイトが生活費の基本に組み込まれている学生の場合は、よく分かるのだが。それにしても、毎日数時間も拘束される生活に、よくまあ耐えられるなぁという、驚きだ。

 働く意味、社会人の意味、給与生活の意味~。
 働くというのは、つまるところ、給与だけの問題ではなさそうだ。行き場ということになろうか。

 いまごろになって、そういうことをまじめに考えるようになった。ふむ。


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コメント

道楽と職業

 明治44年に明石で行った夏目漱石の講演の題名であります。
このMu大兄の記事に全く符合するような話なのですね。
哲学、科学、芸術は道楽であり稼ぎにはならない。
その代わり自分の好きなことだけしかしない。

 職業とはその逆で人のためになることに自分の時間を犠牲にし、対価を得る。
高級そうなことを考えている風な学者なんぞより芸者さんの方がよっぽど高価なものを身に付けている。
私などはニッケルの時計しか持ってないが向こうは高価な指輪をしている。
つまり向こうの方がよほど(人のためになること)をしているという証左である。

 ただ問題はその職業というものがやたらと細分化され専門化していることである。
文明開化とやらで開化が進むに連れ、職業は細分化し、やることの面積は小さくなるばかり。
確かに小さい地面で深く掘っているのかもしれないが、他の土地のことは知らないことばかりとなる。

 漱石のこの講演は、社会に出て職業に就く、ということの意味を考えさせられます。
中学、高校、大学という(場)はどういう場所なのでしょうねぇ。

投稿: ふうてん | 2012年3月29日 (木) 23時51分

ふうてんさん
 職業についてだと、いつも思い出すのは、漱石先生の高等遊民のことです。私は青年時痛切に憧れました。

 で、長い人生の中で得られた感想は。

1.食べる為に働く。職場は社交場ではない。職場で人間関係(友人など)を求めると失敗する、……。
2.自分の好きなことを仕事にしない方がよい。まずくなったとき、逃げ場が亡くなる。
3.働かなくてもて喰っていけるなら、働かなくてもよい。

以上が結論でしたが、……。
しかし、最近は多少変わってきました。

A:職場にはなんだかんだと行っても、話し相手が出来てくる。
B:遊ぶにも才能が必要で、才能が無ければ仕事していると落ち着く。
C:宮仕えは風邪で寝込んでも、数週間入院しても、一応給料が振り込まれる。
D:仕事していると、長い間には、友達ができる。風雪梅安一家と知り合ったのは、いろいろな仕事を通してだった。

 というわけで。
 仕事は細分化されているけど、自分で決めていくことが多くなると、いろいろなことを考えないとうまくいかない。
 学校教育は長い長い前哨戦だった(笑)。

 次は、どう死んでいくかという難しい課題に直面します。
 学校教育では生き方は少し学ぶけど、死に方は正課にないですなぁ~。

投稿: Mu→ふうてん | 2012年3月30日 (金) 14時19分

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