小説木幡記:多機能なものへの思いと実際
人でもそうだが。スマートフォーン(スマホ)やPC、そしてアプリケーション(一太郎やiBooksAuthorや)などなど、使いこなせないほど多機能で、使い切れる自分を想像してわくわくするが、一太郎など登場してからずっと使い続けているから、つまりPC-100というNECと京セラが協同で造ったPCに一太郎の前身のようなソフトがあって、それを使っていたような記憶もあるので、すでに30年間使い続けておるが、一向に全貌を知り、使いこなせたとおもったこともない。
ワープロは日本語をすばやく書ければよいし、表計算はビジカルク(古代のエクセル風アプリ)のように縦横再計算すればよい。まして電子紙芝居は文字や写真を一枚のカードに納められれば、それでよし。とおもっているせいもあるが、どれほどの多機能にわくわくしても、実際に使いこなしている機能は数パーセントと思っておる。と、そう考えると新しいアプリケーションソフトウェアに対しても違和感なく、「最低限、なにができるの?」と問いかけて「そうかい。マルチメディア対応の昔のハイパーカードかいな」となっとくして、ちかごろiBooksAuthorに浸りこんでおる。ただしこのソフトはカードが連続して絵本になるというストーリーを想像できないと、まるでWordの厚化粧テンプレートとしか思えなくなる。
そこで鉄道模型。
最近、モデモ(MODEMO)という会社の製品で「京福電鉄モボ101形・標準塗装」という線路幅が9mm、つまりNゲージの電車を入手した。7000円ほどして他社に比べると1割程度高額だが、それにしてもこの会社の製品は走らせると納得し、その独特の希少性からしても、妙に心がなごむ。このモデモの製品については余は「小説木幡記:2008/07/20(日)ゆっくり生活とMODEMOの車両」を書いているので、今朝それ以上記す必要もない。
で、鉄道模型でひなびた渓谷や村や海岸のひなびた図書館風景を考え造ってきたが、一方で非常に複雑、プログラマブルな多機能性をもったDCCシステムに愛着を覚えてしまった。
さりながらも、こうした小さな嵐電が右京図書館のそばを通り抜けたり、嵐山天竜寺前の嵐電嵐山駅にするすると入ってくる風情を情景モデルとして造ってみたいという、実に単純素朴、すっぴんの考えにも深く深く心が惹かれていく。
さて。
複雑怪奇な小説もおもしろい。
しかし他方、いつまでたっても主人公が歳をとらない、わかいままで各地の事件を解決する、単純素朴なご当地ミステリもすてがたい。
どんな場合も。
本来が持つ機能、能力のほんのわずかしか使いこなせないが、そのわずかなことに、なにかしら「永遠」を味わう。
だから、「人」もそうなんだろう。何年経っても、その単純素朴な存在が気に入るものだ(笑)。
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