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2012年3月21日 (水)

小説木幡記:心の模様

Sdsc_0147 こうやって深夜に目覚めてPCの前に座って、物思いにふけっておった(笑)。
 かんがえるところは「心」といういささかもてあまし気味の厄介な生き物のことだ。
 たしかに、せんだって大先輩が演壇で話しておられた「老病死」という避けられない苦はあるのだが、多くの苦は心模様、心の苦にも帰結すると、当たり前のことを考えておったのだ。

 どういうことかというと。
 老病死のまえに、余はいつも悩み、いつも脳天気にこの世を謳歌しておった。数十年前の若さにも苦はあって、それは死に至る病・絶望をともなっておった。そして老の今でも楽はそこら中にあり、苦と楽が混在し、なにか変わった模様に見えてくるという話なのだ。

 苦と楽とが混ざり合って風や日よりで次々と模様を変えていって、大抵は白と灰色と黒とで模様が墨絵のようにできているが、美味しいものをたべたり、面白いミステリや映画にであったり、人との会話がツボを得たりすると、綺麗な色彩に染まっていく。と、黒はやはり苦に通じる。白は楽に思える。

 深夜にそんなことを考えていた。
 この、人というのは本当に心の病や明るさにいつもなにかと考えさせられる生物だ。なぜ生きていることの意味や意義を思ったり、うち沈んだり、高揚したり、心が浮き沈みするのだろう。単純に脳内麻薬のなせるわざと言えば、それまでのことだが、憂いがあって影ができ、向上心のひかりが心領域を明るくてらし、ところどころに川や森や建物があった方が、陰影があって綺麗な人生に思えるなぁ~と、考え込んだりしてしまう。

 ときどき書斎や研究室の本棚をながめて長嘆息する。たくさんの専門書や小説やミステリや科学読み物があって、じつはそのほとんどを読んでしまっておる。それだけ読み尽くしても(他の人達に比べると、一冊よむと持ちが良くてしばらくは読まない)苦や楽に変化があったとも思えないが、すくなくとも読んでいる間は、読み終わった時の自分の姿を想像して「地平が開ける」「賢くなるかな」「役立つ技量が身につく」「ともかく、楽しい」などといろいろ考えてきたが、読み終わると、「そうですか」と妙に納得しただけで、また次の世界を求める。そしてまた専門書は辞書が更新されたようなもので、驚天動地の新発見とか新思想は無いものだ。

 さて。
 と言っている間に再び睡魔がわきあがってきた。
 また眠るとしよう。

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