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2012年3月13日 (火)

白峯陵の西行

 先月の中頃(2012年2月)に思い立って岡山から瀬戸内海を越えて四国・坂出に至り、いくつかの見どころを訪ねた。その記録はおりおりのMuBlogに断片を記してきたが、このたびは一番の目的地とした白峯陵をまとめておく。

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 この白峯陵のことは20代ころから保田與重郎先生の様々な著書を通して気にかかってきた。しかし知識というものは、なにか特別な機縁とか、あるいは身体をうごかしてとか、つまりは格別身に凍みるようなことがなければ、ただの物知り、文字にかかれた何事かの意味にすぎない。それはそれで大切だが、血肉になった知識との差は大きい。私は白峯陵を机上の知識で終わらせたくはなかった。
 で、
 このたびは、白峯陵への山道を自動車で登り、徒歩で歩き、長い石段を両の我が足で登り、手を合わせ、カメラに収め、その夜の宿で温泉に浸かりながら白峯陵のことを思い出していたから、紙に描かれた記録知識から、血肉に近い体験知識になったと思う。

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 そうは言っても知らぬ事が多すぎた。そしてネット知識は玉石混淆だが随分役に立つ。
 京都の東山に安井金比羅宮があって、そこのサイトに崇徳上皇の怨霊としての御恨みの内容が書いてあった。白峯陵に鎮まる崇徳天皇は日本三大怨霊の一柱と言われているようだ。その典拠をしらべたわけではないが、他の二柱は、菅原道真さんと平将門さんとのこと。菅公については昨年夏に久しぶりに太宰府を訪ね参拝したが、確かに有名な人だ。将門(まさかど)さんは以前に『帝都物語/荒俣宏』の小説や映画で堪能し、古くは大河ドラマにもなっているが、神田明神に祭られているということしか知らない。大きく祟る人だったようだ。

 皇家で祟る人といえば、もうお一人、桓武天皇の弟さんで早良親王(さわらしんのう)と言う方、平安遷都の数年前に謀反の疑いにより長岡京で幽閉されて、淡路島へ行く途中で絶食死された。後日に崇道天皇と追贈され京都には崇道神社がある。この早良親王も祟られた方で、これは夢枕獏原作の映画「陰陽師」で印象深く描かれていた。
 ここで、讃岐白峯陵・崇徳天皇ゆかりの神社は、似通ってはいるが別の白峯神社で、これは明治期創立とのこと。

 天皇の漢風呼び名(漢風諡号:かんふうしごう)は淡海三船(おうみのみふね)という人が一括してそれまでの天皇に呼び名をつけたわけだが、三船自身は壬申乱に破れた大友皇子(弘文天皇)のひ孫にあたり複雑な生い立ちを持ったインテリだった。で、その諡号(三船以降は代々今上が先帝に付けた)の中で「崇」という漢字が含まれる方にはどのような方がおられたのか。

 10代 崇神天皇
 32代 崇峻天皇
     崇道天皇=早良親王(50代・桓武天皇の弟、廃太子)
 75代 崇徳天皇
 北3  崇光天皇

 「崇」とは単純化するなら、祟(たた)るから崇(あが)める、という両義があって、一面では尊崇の為に付け、他面では「祟る天皇さんです」と言っているようなものだ。崇神はこのMuBlogでもたびたび出てくる方だが、崇に神が付くという異色の天皇で、「神」と三船がなづけたのは、神武、崇神、(神功皇后)、応神の三天皇だけで、中でも崇神さんの場合、祟る神の天皇となり、読み方によってはいささか問題がある。と、三船はそのような解釈のもとに名付けたのだろう。

 32代の崇峻天皇は蘇我馬子の命で暗殺された。
 北朝の崇光天皇についてはよく知らない。
 いずれにしても、崇徳上皇が保元の乱で摂関家の悪左府(頼長)と組んで弟の後白河天皇と争い、負けて讃岐に流され、後日に朝廷を呪いながら亡くなられたのが史実である。

 そこに西行が出てくるのは、これはかつて西行が都にいた頃、出家する前は「佐藤義清:のりきよ」という北面の武士として、崇徳天皇時代から歌を通して知り合いだったからだろうか。
 歌といえば新古今和歌集の後鳥羽院は西行の歌をことのほか愛で94首が入った。承久変でやぶれ隠岐島に流され名歌を残しておられる。と、このあたりのことは日本の和歌としていろいろ勉強しないと、何も書けない。


大きな地図で見る

 雨月物語/上田秋成の、最初の短編小説が「白峯」で、西行らしき人が白峯陵を訪れる時の雰囲気(霧雨、闇など)が、私が訪れた時と同じだった。坂出の白峯は高山ではないが天候によっては恐ろしげな山になる。
 この旅行では、近くにある「かんぽの宿・坂出」に泊まったが、景色もよく設備もよく、そして一泊二食の経費もお徳用だった。

追伸
 崇徳上皇、西行、後鳥羽院、芭蕉についてそれなりにまとめようとおもったが、浅学非才を味わってしまった。しかし白峯陵の階段を上がった足の動きだけは、まだ覚えている。保田先生によると芭蕉は白峯陵に参ることなく、大阪で病死した。芭蕉と秋成とは110歳ほどの年齢の違いがあって、芭蕉は秋成も雨月物語もしらない時代の人だが、芭蕉は「歌」において西行や白峯陵をご存じだったのだろうか~。
 幾つになっても勉強の種は尽きない。

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