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2012年3月30日 (金)

小説木幡記:キャンパスの春

Muimg_5185 日本庭園近くの桜は例年早いのだが、今年は本日30日、桜はまだだった。暖かいのだが、暖房を消すとひんやりし、窓を開けるとまだ冷たい。
 バルコニーからテニスコートを眺めていると前の道をひっきりなしにガタゴトと手押し車が往復していた。明日が土曜で4月1日が日曜だから、早々と金曜日に荷物をうつしているのだと、わかった。また佐川急便トラックも入ってきたので、研究者が沢山の図書を運びこんでいるというのも、わかった。大抵は、人がガタゴトと手荷物を運んでいた。
 しかし、キャンパス全体が小振りだから、比較的楽に移動できる。これが大規模大学だと、老いも若きも引っ越し業者の手を借りないと、キャンパス間が一時間もあるところでは、大変だと想像した。

 余は葛野の早朝六時半からぼんやりしていた。
 宿題や締め切りはいろいろあるのだが、さすがに3月も末になると、「もう、いいや!」と妙な達観というか悟ってしまって、なにも手を付けなくなった。しかし9時ころまでに一働きしたことは覚えているので、それでよかろう。
 バルコニーからぼんやりと下を見ていると、浮き世だねぇと、しらずつぶやいておった。
 ~
 明日も明後日も、明明後日も、物語をしっかり考えて、これからもまた考えて、キャンパスを眺めていよう。
 春うらら~。

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2012年3月28日 (水)

小説木幡記:社会人になるときの恐怖

Simg_7537 今はもう大昔のことだった。四月一日から社会人になることが決まり、友人達と三人組んで自動車で旅をした。その旅のこともいつも思い出されるが、それよりも、一日から毎朝9時前に職場に行って、夕方の5時まで自由に出入り出来なくなるという情景を想像し、余は恐怖に震えていた。
 毎日毎日、余の時間、八時間ほどを何かにわたして、その分のお返しとして月の半ばにお金をもらった。3万円だった。
 1万円を貯金し(すごい割合だな)、1万円を食費として実家にわたし、残り1万円でガソリン代と煙草代に使っていた。ものすごく貧しさを味わった。余の同年代の友人たちは、4~5万円の給与をもらっていたような記憶がある。
 ~
 そういう、八時間も職場に拘束されることを想像し、九州の果てをパブリカ1000で走りながら「よくまあ、みんな、我慢できるなぁ」と真剣に驚いていた。
 それからウン十年~、よくまあ耐えてこられたなぁと、自笑。
 ~
 だから。
 学生時代から、アルバイトをしている人をみると、不思議な感覚に陥る。つまり。アルバイトが生活費の基本に組み込まれている学生の場合は、よく分かるのだが。それにしても、毎日数時間も拘束される生活に、よくまあ耐えられるなぁという、驚きだ。

 働く意味、社会人の意味、給与生活の意味~。
 働くというのは、つまるところ、給与だけの問題ではなさそうだ。行き場ということになろうか。

 いまごろになって、そういうことをまじめに考えるようになった。ふむ。


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2012年3月25日 (日)

NHK平清盛(12)宿命の再会:まだ序盤

承前:NHK平清盛(11)もののけの涙:さて、どなたが物の怪か
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 源義朝(鎌倉幕府を開いた源頼朝の父)が東国から帰還し清盛を顔を合わせると舞台だが、まだ両者ともに頭角を現していないので、なんとなく子供のケンカがまた始まった、という印象。今のところは、それでよかろう。

 待賢門院璋子さんが亡くなった。臨終にたちあった鳥羽法皇(上皇が出家すると法皇)を近習が2人がかりで病室から引き離した。なにか、流行病をイメージしていたのだろうか。璋子(たまこ)さんは45歳というていたから、当時なら若死にではなかっただろうが、白河法皇の寵を受け、白河法皇の孫の鳥羽さんに嫁ぎ、~。ドラマでは、鳥羽さんとの間に生まれた崇徳天皇は実は白河爺さんの子どもだったという、驚天動地の解釈だった。だから、ともかく実子の崇徳さんと、亭主の鳥羽さんとが仲がわるくて、璋子さんはそれも苦しいわけだ。もちろん、鳥羽さんが後釜に得子(なりこ)さんをそばに置き、崇徳さんの次の天皇になる方の母(国母)にしてしまったわけだから、璋子さんの心中はますます複雑になり、出家し、病に倒れた、となる。

 歴史としては、今後は得子さんが采配を振るうようだが、それだけの実力を備えた得子さんが、璋子さんの前に立ちふさがったのだから、今夜の璋子さんの死は、なかなかに悲痛なものだった。鳥羽法皇はその気持ちを知るや知らずや、一時は得子さん以外を無視したのだが、最後は璋子さんの死に号泣しておられた。

 と。
 こういう醜聞に近い物語も、ドラマだから、それぞれ人の心の綾を上手に描けば、感動があるものだ。私は、璋子さんがいささか脳天気な女性に思えていたので、得子さんの方に肩をもっておった。鳥羽法皇が最後に璋子さんに心を戻すのは、得子さんが、頭の良すぎる・冴え渡る女性だったから、ぼんやりした璋子さんの方が、可愛かったのだろうな。

 源氏や平氏のことは、ぼちぼち。
 時子さんがなかなか明るい後妻をふるまってよかった。
 時子の弟、時忠は中盤以降、重みをますだろう。

【予習復習】
 白河上皇、鳥羽上皇、~そして後鳥羽院とたくさんの上皇がつかった鳥羽離宮は、私が車に乗ったときは、よく使う行き帰りの道にある。国道1号線でいうと、名神高速・京都南インターチェンジの南側にあたる。広大な敷地で、東にある現在の城南宮もそこに含まれていたようだ。
 増鏡の有名な一節として、後鳥羽院の巻で、「鳥羽殿、水無瀬殿、修理せさせたまひて」とある。鎌倉時代初期には修理して使ったという意味か? とすると、常時使われていたわけでもなさそうだ。~。


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↑鳥羽離宮跡

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2012年3月24日 (土)

小説木幡記:多機能なものへの思いと実際

Simg_7532 人でもそうだが。スマートフォーン(スマホ)やPC、そしてアプリケーション(一太郎やiBooksAuthorや)などなど、使いこなせないほど多機能で、使い切れる自分を想像してわくわくするが、一太郎など登場してからずっと使い続けているから、つまりPC-100というNECと京セラが協同で造ったPCに一太郎の前身のようなソフトがあって、それを使っていたような記憶もあるので、すでに30年間使い続けておるが、一向に全貌を知り、使いこなせたとおもったこともない。

 ワープロは日本語をすばやく書ければよいし、表計算はビジカルク(古代のエクセル風アプリ)のように縦横再計算すればよい。まして電子紙芝居は文字や写真を一枚のカードに納められれば、それでよし。とおもっているせいもあるが、どれほどの多機能にわくわくしても、実際に使いこなしている機能は数パーセントと思っておる。と、そう考えると新しいアプリケーションソフトウェアに対しても違和感なく、「最低限、なにができるの?」と問いかけて「そうかい。マルチメディア対応の昔のハイパーカードかいな」となっとくして、ちかごろiBooksAuthorに浸りこんでおる。ただしこのソフトはカードが連続して絵本になるというストーリーを想像できないと、まるでWordの厚化粧テンプレートとしか思えなくなる。

 そこで鉄道模型。
 最近、モデモ(MODEMO)という会社の製品で「京福電鉄モボ101形・標準塗装」という線路幅が9mm、つまりNゲージの電車を入手した。7000円ほどして他社に比べると1割程度高額だが、それにしてもこの会社の製品は走らせると納得し、その独特の希少性からしても、妙に心がなごむ。このモデモの製品については余は「小説木幡記:2008/07/20(日)ゆっくり生活とMODEMOの車両」を書いているので、今朝それ以上記す必要もない。

 で、鉄道模型でひなびた渓谷や村や海岸のひなびた図書館風景を考え造ってきたが、一方で非常に複雑、プログラマブルな多機能性をもったDCCシステムに愛着を覚えてしまった。
 さりながらも、こうした小さな嵐電が右京図書館のそばを通り抜けたり、嵐山天竜寺前の嵐電嵐山駅にするすると入ってくる風情を情景モデルとして造ってみたいという、実に単純素朴、すっぴんの考えにも深く深く心が惹かれていく。

 さて。
 複雑怪奇な小説もおもしろい。
 しかし他方、いつまでたっても主人公が歳をとらない、わかいままで各地の事件を解決する、単純素朴なご当地ミステリもすてがたい。
 どんな場合も。
 本来が持つ機能、能力のほんのわずかしか使いこなせないが、そのわずかなことに、なにかしら「永遠」を味わう。
 だから、「人」もそうなんだろう。何年経っても、その単純素朴な存在が気に入るものだ(笑)。

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2012年3月21日 (水)

小説木幡記:心の模様

Sdsc_0147 こうやって深夜に目覚めてPCの前に座って、物思いにふけっておった(笑)。
 かんがえるところは「心」といういささかもてあまし気味の厄介な生き物のことだ。
 たしかに、せんだって大先輩が演壇で話しておられた「老病死」という避けられない苦はあるのだが、多くの苦は心模様、心の苦にも帰結すると、当たり前のことを考えておったのだ。

 どういうことかというと。
 老病死のまえに、余はいつも悩み、いつも脳天気にこの世を謳歌しておった。数十年前の若さにも苦はあって、それは死に至る病・絶望をともなっておった。そして老の今でも楽はそこら中にあり、苦と楽が混在し、なにか変わった模様に見えてくるという話なのだ。

 苦と楽とが混ざり合って風や日よりで次々と模様を変えていって、大抵は白と灰色と黒とで模様が墨絵のようにできているが、美味しいものをたべたり、面白いミステリや映画にであったり、人との会話がツボを得たりすると、綺麗な色彩に染まっていく。と、黒はやはり苦に通じる。白は楽に思える。

 深夜にそんなことを考えていた。
 この、人というのは本当に心の病や明るさにいつもなにかと考えさせられる生物だ。なぜ生きていることの意味や意義を思ったり、うち沈んだり、高揚したり、心が浮き沈みするのだろう。単純に脳内麻薬のなせるわざと言えば、それまでのことだが、憂いがあって影ができ、向上心のひかりが心領域を明るくてらし、ところどころに川や森や建物があった方が、陰影があって綺麗な人生に思えるなぁ~と、考え込んだりしてしまう。

 ときどき書斎や研究室の本棚をながめて長嘆息する。たくさんの専門書や小説やミステリや科学読み物があって、じつはそのほとんどを読んでしまっておる。それだけ読み尽くしても(他の人達に比べると、一冊よむと持ちが良くてしばらくは読まない)苦や楽に変化があったとも思えないが、すくなくとも読んでいる間は、読み終わった時の自分の姿を想像して「地平が開ける」「賢くなるかな」「役立つ技量が身につく」「ともかく、楽しい」などといろいろ考えてきたが、読み終わると、「そうですか」と妙に納得しただけで、また次の世界を求める。そしてまた専門書は辞書が更新されたようなもので、驚天動地の新発見とか新思想は無いものだ。

 さて。
 と言っている間に再び睡魔がわきあがってきた。
 また眠るとしよう。

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2012年3月19日 (月)

小説木幡記:雑記帳

Sdsc_01091.ガソリン
 1リットルの価格がセルフサービスでも150円を超えた。どんどん値上がりしてきて、ますます高額商品になりそうだ。自分のことは月に2~3回の給油だから、なんとかしのげるが、営業の人とかパトカーとかはガソリン車だろうから、困ったことだ。
 タクシーはLPガスらしいが、ついでに値上がりしているらしい。

2.ミステリー
 アイアンハウス、この上下文庫を先週、素早く読んだが、どこかの書評にあったとおり、一気読みしてしまった。兄弟がいて、兄はタフ・敏捷・おとこまえ・くそ度胸と暴力的ヤクザ的なヒーローで、弟は繊細きわまる・心が病む・芸術家、という設定で、二人は双子ではないがよく似た顔つきで、離ればなれのまま成長した。
 弟は、上院議員の養子なので、何不自由なく湖さえ中に在る4000エーカー(16平方キロだから、正方形だと4km四方の土地。広い!)もの土地で育ってきた。彼が書くファンタジーは世界中で売れている。
 他方、兄のマイケルは、……。ものすごい隠し資産や武器を隠れ家に持っているが、それは育ててくれた親分に忠実、かつ親分の息子以上に大切に育てられたことと、マイケルの悪行(笑)のたまものだった。
 この兄弟を挟んでさまざまな道行きがあるのだが、それは読めば分かる。

 読んでいて思ったのは、超超といえるほどの大金持ち世界と、悪臭ただよう生ける屍がうろつく超超貧民世界との対比がわかりやすさをもたらしている。くっきりしすぎだが、疲れているとき読むには良薬だな。
 それとさすがに謎解きも超一流話である。伏線はたしかに幾つも貼られているが、コントラストに幻惑されて、事の真相がなかなかつかめなかった。
 ともかく、面白い。

3.鉄道模型の宗旨替え
 宗旨替えというても、この半年くらいのことだが、できるだけ単純、あっさり世界を求めるようになってきた。30x36x10センチの四角いスチレンボードの塊に、上面だけコルクシートを貼り付けて、側面を黒や緑の幅広ビニールテープで巻しめる。
 できるだけ石膏や紙粘土やを使わず、彩色もしない、そのままスッピン。
 この簡易土地に(36x30=108平方センチ)R140ミリ楕円とポイントの引き込み線で鉄路をつくり、図書館らしい市販の公民館や教会ミニチュアを置き、モデモ社の「嵐電」シリーズ車両を走らせる。

 余は嵐山・嵯峨野で育ったので(幼稚園前~結婚直前まで)、よくつかった嵐電を図書館世界に組み込みたいわけだ。しかしその頃の記憶では、図書館といえば嵯峨小学校の図書室しか覚えていない。
 嵯峨野高校では司書教諭の先生や図書室や先輩の姿をおぼえている、……。

4.日常
 昼間に卒業式があった。祝辞もあった。
 仏陀が言われた、老病死の苦に余も深く考え込んだ。いずれもますます身近なものになってくる。その中で安定した生を生ききるのは、根性も必要だな(笑)
 東北でも葛野の学生、卒業生が行方不明になったり、難儀の中にいる。そういう話を肉声で聞くと、TVニュースとは異なった情感に包まれた。まことに、大変なことだったのだ、と。

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2012年3月18日 (日)

NHK平清盛(11)もののけの涙:さて、どなたが物の怪か

承前:NHK平清盛(10)義清散る:可哀想ってのは惚れたって事よぉ
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 平清盛の長男は最初の妻(明子)との間に生まれた後の平重盛となる。いわゆる「小松殿」と呼ばれた人である。(明子の次男・基盛は20代に亡くなる。)
 平家物語では重盛の屋敷が六波羅近くにあって~と知るが、これは「物語」つまり虚構だから、事実がどうなのかは分からぬ。ところがその物語によって後世の人達は重盛を、父・清盛と、後の後白河法皇という、ふたりの強烈きわまる濃い政治家の間を取り持った、洞察力と良心に優れた人と思っている。
 それでよかろう。昔の事は誰にも分からぬし、たとえタイムマシンでそばに行っても、その人の心中や政治的配慮陰謀計画は、分からぬものである。

 今夜は、崇徳天皇が譲位し幼い実子に皇位を譲るため、得子(なりこ)の進言によって、まず父・鳥羽上皇の息子を養子とし、中継ぎとし、そこで崇徳上皇として政(まつりごと)に力を尽くそうと考えられた。だが、実は皇太子としてではなく皇太弟という形で天皇位が譲られたので、崇徳上皇は「弟」を指導する立場がなくなった。皇太子として表現されたのなら、父として息子の新・天皇に対して指導力が及ぶが、弟に位を譲った場合は、無理がある。つまり、依然として政は新・天皇の実父の鳥羽上皇が指導することになる。

 ややこしい話だが、もともと譲位したあとの元・天皇が上皇として君臨する制度(院政という)は、実子を皇位に就けることが目的だった。そこに自分の兄弟や親族の介入を拒絶する考えが最初にあったわけだ。だから結果として弟に皇位を譲った限りは、(理屈の上では皇太子として譲位されない限りは、)崇徳上皇の政は動かない。壬申の乱で兄・天智天皇と、弟・天武天皇の関係があって、兄の息子「大友皇子」は、実父の弟に討たれたわけだ。天智天皇は生前、このことを半ば予見していたと考えるのが自然だ。

 ここで疑問は、なぜ崇徳天皇は不利になるかもしれない鳥羽上皇の皇后・得子(後の美福門院)の意見を取り入れたのか。
 そして、皇太子や皇太弟としての、その違いを意識して譲位・即位の詔に組み込んだのは誰なのか?
 と、いろいろ疑問が残るが、ドラマとしてはいろいろ陰謀があった、程度でよかろう。
 謎解きは信西あたりが、とうとうと述べてくれないと、よく分からぬ。


 また今夜は、清盛の最初の妻「明子」が長男・重盛、次男・基盛を残したまま若死にした。これは、もらい泣きするほどに悲しい出来事だった。

予習復習
 平重盛が小松殿と呼ばれていたのは知っている。だから小松殿がどこにあったのか調べだした。すると一応の解として京都市東山区の正林寺とあったのだが~これが本宅とか別宅とか、記事によって揺れがあるので、ふと疑問を感じた。というのも、頭の中には六波羅蜜寺あたりとあったので、渋谷街道にそった京都女子大近辺では、やや距離が離れすぎなのだ。

 で、もうすこし記事を探してみると、「平重盛に会いたい」というのがあって、これが正林寺説への疑問にたどり着いて、別の学術的論文にまでふれていた。

 と、めぐりめぐって国立国会図書館の「レファレンス協同データベース」に出くわし、そこに蓄積された「京都府立総合資料館」の解答にであった。で、解釈するなら、「正確には分からない」という、正確な回答があった。それでよいと思う。だいたい、六波羅蜜寺の南にあったのだろう。それ以上は研究者の説が定まるまで待つか、作家の直感に頼らざるをえぬ。


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↑六波羅蜜寺。この界隈に平家一門の根拠地があり、小松殿と呼ばれた平重盛屋敷はここより南東500mほどの位置と推測(邪笑)

追記
 レファレンス協同データベースを有効につかうには、その「簡易検索」機能を使うとわかりやすい。とりあえず、インターネット情報の玉石混淆状態からは免れられる。

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2012年3月17日 (土)

小説木幡記:若筍煮とか故・原田先生のこととか

Sdsc_0137 今日は土曜日だが葛野で入学前の・新入生の歓迎会があって朝から出かけていた。午前中は四月からの授業のまとめに時間をかけていた。科目内容が大幅に変わるのでそれに応じて手を入れておるわけだ。

 お昼は近所のメシヤに行った。若筍煮が300円、豆ご飯小が200円、味噌汁100円、ソーセージ一本100円の、合計700円だった。えらい贅沢をしてしまった。数日前に学食で天蕎麦を食べたら190円ですんだが~。

 若筍煮をいただくと、昔、59歳で亡くなられた原田先生のことを思い出す。グルメと言える方で、幾つもの美味しい店を脳データベースに蓄えておられた。京大の先生をなさっていたころは、近所の居酒屋というか小料理屋へ月に数回はおともした。
 ご飯は食べず、清酒と美味しい料理だけで過ごされていた。
 その中に、若筍煮があった、~。
 ただそれだけの思い出だが、メシヤで若筍煮を見た途端、原田先生を思い出し、偲びながらいただいた。

 ついでと言ってはなんだが。
 百万遍の寿司屋では、寿司は取らなかった。まずお酒。それも「冷や酒」と余が言おうものなら、すかさず「れいしゅ、Muさん、れいしゅと言ってくださいよ」と睨まれた。次に、お造りの盛り合わせ。これは目の前の大将が心得ていて、いつも最良のネタをしゃかしゃかとお造りにしていた。
 ~あとは、酢の物。
 しかし、なんですな。寿司屋で米のついた寿司をいただかない日本人は、まあ、少ないでしょうね。
 余はそういう数少ない人士(師匠にあたる)のそばに10年以上いた、

 他にもいろいろ美味しいものはあったが、若筍煮。
 また後日、食べてみよう。

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2012年3月16日 (金)

小説木幡記:暴力装置とか王家の犬とか~平清盛像

Sdsc_0107 毎週NHK大河ドラマ「平清盛」を楽しんでおるが、ネットで眺める限り、評判がよろしくない。画面が汚いとか、左翼的言辞が多いとか、歴史無視とか、~またドラマ関係者たちの確執(とくに女優間)、お色気路線、……。視聴率が低いとは言っても10%をこえているのだからたいしたものだが、大河ドラマは20%を越えないとそこら中で叩かれるようだ。関係者の苦労もしのばれる、脳。

 余が感じたことをいくつかメモしておく。

1.お色気
 たいしたことではないが、夕食食べながらのTVで、女優が男優に組み敷かれている場面になると、ちょっと引きますなぁ。

2.騒がしい
 清盛や海賊が大声で怒鳴り合っているのを聞くと、うるさいな。耳をすませると、なにか子どもっぽい理想とか正義とか「面白く生きる」とかどうとか。ばかばかしい。たしかに子供だましのセリフが多い。

3.王家の犬
 以前に、「暴力装置」という旧左翼系社会学の学術用語を日常で使ってもめた政治家がおった。旧左翼の意地悪い翻訳語をそのまま使ったのがアホなんだろう。武力装置(笑)といえばニュアンスも少し変わるのに。で、「犬」という言葉もドラマだから史実よりも雰囲気や流れが大切だから、犬でも猫でもロバでもよいのだが、平氏や武士階級を「王家の犬」と連呼するのは、自虐的すぎる、脳。
 まるで警察官や自衛官が、「わてらは国民や政府の、犬どすえ」と叫ぶようなもんじゃ。
 (狂犬よばわりでなくて、まだよしとするか、(脚本)清盛さんよ)
 警備会社や警備員が「おいらは、この会社の雇われ犬、暴力装置でっす」というようなもんじゃ。
 武力は、単純に職能にすぎない。
 自分自身の仕事を自虐的に言い出すときりがない。
 (医者や坊主や教師なんて、恥ずかしくなるじゃないか、のう:ああ、暴力装置を自在に操る政治家も)

4.セリフが聞こえにくい
 余の耳が遠くなっておるのは事実だが、それにしても、特に女優さん達のセリフが聞き取りにくい。
 いや、男優もか。
 現代のドラマ役者達は、もごもご言うのが上等なのか? まさか。
 いや、あえて聞かせないのが上手の証なのか? (紙背、行間を読め! とか(笑))
 相当に音量を上げて何度か聞き直さないと、理解できないセリフというのはちょっとおかしいな。
 (他のドラマではそんなことはない)

5.~と。
 いろいろあるが、もうよかろう。

 ドラマというのは見るに堪えなくなればTVを消すしかない。
 国民の貴重な視聴料をつかって~という批判はあってもおかしくないが、余はそういう話にはかかわりたくない。余は今年の「平清盛」は、清盛を悪逆、悪役の視点から一歩抜け出した人物として描くのが楽しみなのだ。アチチと熱病におかされて地獄に堕ちた清盛というイメージでは、どうにもならぬ。

 そう思えば、ここ数週間の明るく騒がしい清盛がどんな風に成長していくのかを見るのは、楽しみなのだ。
 だから、NHKもあんまり視聴率に凹まずに、偉大なる「平清盛像」を盛り上げていけば、よろしかろう。
 ただしかし、「王家の犬」といじけたセリフを吐くのは、もう聞きたくない脳。
 そりゃ、自虐きわまる愚痴でっせ、(脚本)清盛さん。

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2012年3月15日 (木)

小説木幡記:ビブリオバトル

0img_4708 このごろMuBlogをだいぶ休載したが、心身は快調なのだ。ただ、気がよそに向いているときは無理して、誰も読まない日記を付ける必要も無かろうと、~ちょっと達観しておるのでのう。ところがアクセス解析を見るとなにかしら来訪者もいるので、「やはり、書けるうちは書いておこう」と、また達観したわけさ(笑)。

 相変わらずミステリおよびその近似物を読んでいる。
 昨年話題になった、「ビブリオ古書堂の事件手帳」は文庫2冊を読了した。これは正月に帰省したエドルン君もいたく気にいったようだ。余は、1冊目よりも2冊目が滑らかで深く、よかった。とまあ、世間で話題になる物でも、こんな風に上等なものもまれにあるのだなぁ、と感心した。この作者三上さんは、伏線を長く保つ方なので、~忘れた頃の時限爆弾という感想だな。
 そうそう、浦澤直樹さんの『マスターキートン』は4冊読んで、心の随まで震えておるが、最近「時限爆弾」が描写されておって、上記文言に、自然につながったのかな。

 ネットで「ビブリオ」と入れたら最初にでたのが、ビブリオバトルだった。新しいことの多くが若い人達の賛同で成長していくのが時代想だなぁ。しかしこれもなかなかおもしろそうで、上手に工夫して司書科目:情報図書館学の授業や演習に活かしましょう! と、おもった矢先、すでに日本の市立図書館ではビブリオバトルを取り入れた読書活動していると知った(知るのが遅いと自笑!)。宇都宮の図書館らしい
 関東とは、ふむ栃木は進んでおるのう。見直した!!
 (ともう少しみたら、あはは、京都も奈良もいろいろ各地、進んでおる。嵐電貸し切りバトルって、おもしろそうだ)

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2012年3月13日 (火)

白峯陵の西行

 先月の中頃(2012年2月)に思い立って岡山から瀬戸内海を越えて四国・坂出に至り、いくつかの見どころを訪ねた。その記録はおりおりのMuBlogに断片を記してきたが、このたびは一番の目的地とした白峯陵をまとめておく。

Muimg_7513

 この白峯陵のことは20代ころから保田與重郎先生の様々な著書を通して気にかかってきた。しかし知識というものは、なにか特別な機縁とか、あるいは身体をうごかしてとか、つまりは格別身に凍みるようなことがなければ、ただの物知り、文字にかかれた何事かの意味にすぎない。それはそれで大切だが、血肉になった知識との差は大きい。私は白峯陵を机上の知識で終わらせたくはなかった。
 で、
 このたびは、白峯陵への山道を自動車で登り、徒歩で歩き、長い石段を両の我が足で登り、手を合わせ、カメラに収め、その夜の宿で温泉に浸かりながら白峯陵のことを思い出していたから、紙に描かれた記録知識から、血肉に近い体験知識になったと思う。

Muimg_7531

 そうは言っても知らぬ事が多すぎた。そしてネット知識は玉石混淆だが随分役に立つ。
 京都の東山に安井金比羅宮があって、そこのサイトに崇徳上皇の怨霊としての御恨みの内容が書いてあった。白峯陵に鎮まる崇徳天皇は日本三大怨霊の一柱と言われているようだ。その典拠をしらべたわけではないが、他の二柱は、菅原道真さんと平将門さんとのこと。菅公については昨年夏に久しぶりに太宰府を訪ね参拝したが、確かに有名な人だ。将門(まさかど)さんは以前に『帝都物語/荒俣宏』の小説や映画で堪能し、古くは大河ドラマにもなっているが、神田明神に祭られているということしか知らない。大きく祟る人だったようだ。

 皇家で祟る人といえば、もうお一人、桓武天皇の弟さんで早良親王(さわらしんのう)と言う方、平安遷都の数年前に謀反の疑いにより長岡京で幽閉されて、淡路島へ行く途中で絶食死された。後日に崇道天皇と追贈され京都には崇道神社がある。この早良親王も祟られた方で、これは夢枕獏原作の映画「陰陽師」で印象深く描かれていた。
 ここで、讃岐白峯陵・崇徳天皇ゆかりの神社は、似通ってはいるが別の白峯神社で、これは明治期創立とのこと。

 天皇の漢風呼び名(漢風諡号:かんふうしごう)は淡海三船(おうみのみふね)という人が一括してそれまでの天皇に呼び名をつけたわけだが、三船自身は壬申乱に破れた大友皇子(弘文天皇)のひ孫にあたり複雑な生い立ちを持ったインテリだった。で、その諡号(三船以降は代々今上が先帝に付けた)の中で「崇」という漢字が含まれる方にはどのような方がおられたのか。

 10代 崇神天皇
 32代 崇峻天皇
     崇道天皇=早良親王(50代・桓武天皇の弟、廃太子)
 75代 崇徳天皇
 北3  崇光天皇

 「崇」とは単純化するなら、祟(たた)るから崇(あが)める、という両義があって、一面では尊崇の為に付け、他面では「祟る天皇さんです」と言っているようなものだ。崇神はこのMuBlogでもたびたび出てくる方だが、崇に神が付くという異色の天皇で、「神」と三船がなづけたのは、神武、崇神、(神功皇后)、応神の三天皇だけで、中でも崇神さんの場合、祟る神の天皇となり、読み方によってはいささか問題がある。と、三船はそのような解釈のもとに名付けたのだろう。

 32代の崇峻天皇は蘇我馬子の命で暗殺された。
 北朝の崇光天皇についてはよく知らない。
 いずれにしても、崇徳上皇が保元の乱で摂関家の悪左府(頼長)と組んで弟の後白河天皇と争い、負けて讃岐に流され、後日に朝廷を呪いながら亡くなられたのが史実である。

 そこに西行が出てくるのは、これはかつて西行が都にいた頃、出家する前は「佐藤義清:のりきよ」という北面の武士として、崇徳天皇時代から歌を通して知り合いだったからだろうか。
 歌といえば新古今和歌集の後鳥羽院は西行の歌をことのほか愛で94首が入った。承久変でやぶれ隠岐島に流され名歌を残しておられる。と、このあたりのことは日本の和歌としていろいろ勉強しないと、何も書けない。


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 雨月物語/上田秋成の、最初の短編小説が「白峯」で、西行らしき人が白峯陵を訪れる時の雰囲気(霧雨、闇など)が、私が訪れた時と同じだった。坂出の白峯は高山ではないが天候によっては恐ろしげな山になる。
 この旅行では、近くにある「かんぽの宿・坂出」に泊まったが、景色もよく設備もよく、そして一泊二食の経費もお徳用だった。

追伸
 崇徳上皇、西行、後鳥羽院、芭蕉についてそれなりにまとめようとおもったが、浅学非才を味わってしまった。しかし白峯陵の階段を上がった足の動きだけは、まだ覚えている。保田先生によると芭蕉は白峯陵に参ることなく、大阪で病死した。芭蕉と秋成とは110歳ほどの年齢の違いがあって、芭蕉は秋成も雨月物語もしらない時代の人だが、芭蕉は「歌」において西行や白峯陵をご存じだったのだろうか~。
 幾つになっても勉強の種は尽きない。

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2012年3月11日 (日)

NHK平清盛(10)義清散る:可哀想ってのは惚れたって事よぉ

承前:NHK平清盛(09)ふたりのはみだし者:生まれてくるのが大ばくち
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 佐藤義清(のりきよ:藤木直人)の惑乱。
 恋情に理屈をつけなくとも、単純に守護する女主人に懸想(けそう)したと、それだけのことだが、ドラマなのだから、なにかと~。しかし、可哀想とは惚れたって事よぉ~という通説のごとく、璋子(たまこ)さんの境遇に同情したといってもわかりやすい。

 ドラマだが、
 義清が自分の娘を蹴り落とす場面は実にリアルだった。人は自分自身の懊悩に制御を忘れると、何をしでかすか分からない。狂った様を描いていた。ところが実は、これが俗人の出家の姿なのかもしれないと、思った。仏陀も家族をすてた。平安末期の佐藤義清も家族を棄てた。

 そしてまた△関係というか、三すくみというか、実に難しい人の心と心の哀憐憎悪を上手に描いていた。鳥羽上皇は得子(なりこ)と子をなし、昔の璋子を見限っている振りをする。いまだに息子の崇徳天皇の実父が白河法皇であったことで、璋子に愛と憎しみを感じている。璋子は文武両道の佐藤義清に惹かれながらも、鳥羽上皇から突き放された悲しみに耐えられない。と、実はドラマでは、璋子のお付きの堀河局と義清との関係も複雑にある。確かに二人は深い関係だった。

 と、要するにこれだけ複雑怪奇な人間の愛憎が絡んでくると、より感性のすこやかな義清が出家して、一切合切の座布団返し(バクチじみてくるな)をして愛憎劇の幕を引かないと、収拾がつかぬ。このことで、悪左府のつけいる隙もひとつ減少するわけだから。

 それにしても随分な不敬内容だ。
 歌舞伎なら、時代を飛鳥時代に飛ばして描くかもしれぬが。
 ただドラマだし、お話だし、これに目くじらを立てると源氏物語など官立大学では研究も出来なくなる。
 また、来週も楽しみだが、はやばやと西行がうまれてくれてほっとした。まだまだ清盛が脇役じみているので、いささかしびれを切らしてきたところなのだ(笑)。

◇予習復習
 ドラマでは清盛と義清(のりきよ)とが仲の良い親友として描かれ、毎回武人とはいえ貴公子義清に、小汚いバンカラ清盛がやり込められるおかしみがあるが、事実はどうだったのか? 勿論、私は当時の彼らのそばに居ないかったので分からぬが、歴史的事実として、西行と清盛とが同年齢だったことは分かる(ようだ)。

 『西行と清盛/五味文彦』(新潮選書)によると、その巻頭に二人の行跡がはっきり分かる表があった。言葉であらわすと、二人は元永元年(1118)に生まれ、数え1歳となっていた。義清が出家遁世し西行と名乗るのは二人が数え23歳。実に若かったし、その出家は都人に惜しまれたようだ。
 ~
 西行は63歳で伊勢に移り神の道に親しむが、翌年治承五年(1182)64歳で平清盛は死去する。そして願わくは花の下で春死んだのは、清盛死去後9年後、西行73歳であった。
 西行は厳しい旅を続けた割には長生きだし、政治激務に明け暮れた清盛も64歳まで生きている。二人ともに元気な人だったのだろうか(笑)。
 なお、著者の五味先生は、西行遁世を待賢門院璋子(鳥羽上皇・中宮)との関係にあったという説には懐疑的だった。もし璋子との恋情にあるなら、それは大スキャンダルだし、貴族達の日記にも大々的に騒がれただろう、と選書を読みながらそう思った。

 白洲正子さんの『西行』(新潮文庫)では、また別の解釈が色濃くあったが、それはまた後日に。

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2012年3月10日 (土)

小説木幡記:アップル社のiBooks-Authorなどでうむふむ

 以前、とは言っても2月ころか、アップル社が電子書籍を製作するツールをだした。無料というので飛びついて初版をダウンロードし、すでにパワーポイントで造っていたある種のbookを再構築した。
 なかなかのものだった。
 が、しかしそれから葛野も会議会議で失神するほど繁忙、さらにひな祭りには最高顧問を十年つとめた葛野図書倶楽部2001の集会もあって、寧日暇無し、ということが続いていた。

 昨日から漸く心おちつくひとときを葛野研でもてるようになり、さっそく仕事を再開した。
 なにが、とはいいにくいのだが、パワポやKeyNoteとは異なる。電子書籍を自製するには、将来iBooksAuthor、これしかないなぁという、そんなカン働きが働いた。昨日はさっそく微妙な仕様変更もあり受付、本格的に動かし始めた。

 今日は葛野で3時間実験した。
 そうだな、昔なら研究内容などの詳細は、そうそう人に言わなかったが、もう年も年じゃから言ってしまう(笑)
 ここ数年、有志学生たちと、鐵道図書館列車コンセプトのうち、いろいろな図書館や博物館を小さな基盤に作ってもらってきた。それぞれが報告書をだしてくれているので、それをまとめることにした。コンセプトと技術の両方を含んだ教科書を造り出したわけだ。

 各学生がつくるものは「モジュール」として情景は独立している。寺院図書館、海辺の駅図書館、田舎の図書館、黒い森の図書館、……。これらをリンク・結合させるのがレールである、……。と、説明はいずれ後年にでも。
 要するに、そういうモジュールを製作する報告書を電子書籍として造っているわけだ。

 ~
 まあ、いずれMuBlogでもきっちり記録するつもりだ。

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2012年3月 9日 (金)

ひな祭り誠会20120303:葛野と伏見港「鳥せい」 2012/03/03(土)

Opsyugo_3 葛野図書倶楽部2001も結成以来活動10年を経たので、解散することになった。その総会と、最後の現役を送り出す会を先週のひな祭りに開催した。昼の部(葛野大教室)と夜の部(鳥せい本店)の二部構成でほんのわずかな入れ替わりがあったが、都合30名の出席があった。

 総代はセト局長2002で、幹事長はサカグチ副長2003と2003年次7名全員にまかせた。残念ながら幹事長は病欠となり、代わってイノウエ書記局長2003、イチカワ三番隊長2003らが指揮を執った。

 式は両部にわたり笑顔が絶えず盛会だった。余も笑い食べ飲んだ。終了後は早々と帰宅し熟睡したが、翌朝さすがに喪失感に包まれた。十年の長きにわたり維持してきた組織が消えるとは、こういうことなのかと一人でかみしめた。眼をつぶれば十年のことごとが走馬燈のように駆け過ぎていく。一瞬に人生を味わった。

☆ 昼の部:事前準備 屯所、研究室、メシヤ
 総会は午後2時からだったが、午前中に早々と幹事や関係者たちが屯所に訪れた。ヨシムラ経理局長&一番隊長2009は引き出物の「特別号」編集長として最後の確認をしていた。ビデオ撮影を依頼していたハルナ二番隊長2006が欠席になったので、代役の声をかけると引き受けてくれた。

 大道芸を依頼したメリ一番隊長2004も神戸からはやばやと用具一式を担いで来てくれた。長物(棒や模造刀)を持っての阪急電車は大変だろうとねぎらった。
 2003年次の幹事達が10時過ぎには次々と集まり、屯所で打合せを始めた。
 夜の部の経理をまかせたアサダ経理局長2003には前日に引き下ろした会費や寄付を15万円ほど手渡した。内、未回収金を当日切り取り自由という乱暴な依頼だった(笑)。

 11時半には幹事と関係者うちそろって、合計8名で近所のメシヤに行った。モンジ二番隊長2003が壮大な副食品目を並べて悦に入っていたので聞いて見ると、案の定、朝食抜きだったようだ。昼食の経理はその場で一番若いヨシムラ2009に任せて余は早々と自室に戻った。

 昼過ぎに、用務で出席できないソガ書記局長2010が鉢植を持参してくれた。
 東京からナガイ副長2007と、滋賀からアカエダ局長2007とが大量のどら焼き持参で部屋に来てくれた。アカエダ局長には鳥せいでのビデオ撮影を依頼し、快諾を得た。

 東京からヤマムラ局長2008と富山からサタケ経理局長2008がきてくれたので部屋で遠路をねぎらった。同期コンドウ書記局長2008は秋田から飛行機で夜の部に参加するとのことだった。新潟からサトウハ局長2010が塩羊羹を手土産に持って来てくれたので、写真撮影を依頼した。(もう一人はヨシモト参与2006に撮影を任せた)

 セト局長2002がまだ3ヶ月ほどの長女を見せてくれた。ものすごく愛想がよくてケタケタと笑ってくれた。創世紀組の局長として、長女初節句にもかかわらず万難をはいしての総代出席に感じ入るところ大きかった。また突撃とか「切り込み隊長」とかおとろしい異名を持つホンダ一番隊長2001/2002も、組織の中堅としてごった返している関東の某現場から駆けつけてくれた。

 福井からは9ヶ月の長男を抱えたカツラ副長2002が来てくれて、余に重い長男を抱えさせてくれた。このごろ木幡ではハルキ猫にもすりよられ、なんとなく幼児とは相性が良いようで、彼は笑顔を見せてくれた。多趣味で有名なイシバシ二番隊長2002は、今度は合気道とか言っていて、笑いあった。市長がかわったせいでこれまで使っていた道場が使えなくなったそうな、……。

☆ 昼の部:本番 361教室

Opsokai_2 総会は午後2時から4時半まで、改装した361室で行った。余も初めて使う教室だが、横に超豪華な手洗いがあり、その横には控え室に使える演習室もあり、環境設備は葛野キャンパスでも有数の物だった。

 席数は200人以上入る大教室だが、余はこの20年間むやみやたらに大教室を教務課に要求してきた(笑)。なんというか、階段教室で(361も二段階段)、ぽつりぽつりと学生たちが散開した中で、部屋を暗くして、一人で巨大スクリーンを指示しながら講義するのが、たとえようもない好みだったのだ。この日も、ご隠居たちは学生の習性にしたがって、最深部の席に着こうとしていたが、さすがに最後の総会だったからか、全員階段の手前までに収まった。

 総合司会はキタワキ局長2005とアサカ書記局長2005が担当してくれた。二人とも実に闊達な学生時代を覚えているので、爆笑脱線司会を期待したが、案に相違して荘重堅実品格のある司会芸を披露してくれた。しかも局長は一週間前に秘密(笑)結婚しての駆けつけで、新婚早々の家から脱出してきたようなものだ。

0.総代挨拶:セト局長2002
 創世紀メンバは異口同音に「10年続くとは思わなかった」と言ってきたが、総代としてその感慨に触れていた。もともと(情報)図書館学、司書養成に顔をだす若者は「おとなしい、地味な性格」が基本の共通点だが、葛野図書倶楽部2001に歴年参加してきた学生達は、個性が強く、オタク傾向で、~粘り強い面が多かったのだろう。つまりある時点で、屯所や倶楽部や演習助勤が彼女らの「趣味」「血肉」「日常」に変わっていたのかもしれない。おだやかなセト総代の挨拶を聞きながら、余はそんなことをふと回想していた。

 総代の時代に、作家の森博嗣さんに講演をしていただき、そのとき千人の来客があり、セト局長には事務局長を依頼し、現場の作戦指揮はホンダ一番隊長2001/2002にまかせた。そんな夢のような十年前の記憶が、眼前のセト局長の挨拶によって、呼び戻された。

1.講演「司書課程と社会人」ナガイ副長2007
 盛んに、まるで余の結婚式のごとく、余の「教え」が社会で役立っているとのたまうので、余は穴があったら入りたい心境であった。なんでも~余はさかんに「組織的に行動すべし」と学生時代の副長を叱咤していたようだ。(記憶にはございません)

2.講演「2011年の助勤について」ヒロセ副長2011
 助勤(上級生による授業支援)の年間の訓練、話合い、予定を正確に語ってくれた。相当な体力と知力とを消耗したようだ。ところが、これだけ厳しい制度になったのは、厳格なヨシオカ局長2004の時代からだったらしい。当人は会場に未着だったので、関係者一同「どれほど厳しい局長だったか」という話で盛り上がった。

3.口上芸「がまの油」メリ一番隊長2004
 メリ隊長の現在の生業なので、常になく襟を正してありがたく拝聴した。と、口上がなめらかでユーモアもあるせいか、会場内で余の笑い声がひときわ高くなっていた。もともとはバルーン芸が得意なのだが、余の希望も入れてくれて口上芸となった。がまの油売りのああいう長口上をまだ若いメリ隊長がとうとうと話すのを聞いていて感動した。

4.講演「青赤白黒の人生相」最高顧問
 青春、朱夏、白秋、玄冬の四つの人生の季節を自分に当てはめて、久しぶりの演説を行った。

5.関係者挨拶
 ヨシムラ経理局長&一番隊長2009 ひな祭り誠会引き出物「Truth特別号」の特別・編集長:= 各年次すべての関係者から原稿を集めたとのこと
 ヒロセ副長2011 本編・Truth最終号の編集長として、またすべての機関誌・TruthをPDF化した:= 古いTruthはファイルの残っていない物もあり、元本からPDFを複製したとのこと、全38号
 シマヅ書記局長2011 倶楽部月例会の議事録をPDF化した:= 初期11号までは記録が無く、12号(2002年9月19日)~112号(2012年1月20日) までの101号分
 クロダ三番隊長2011 10年分の優勝作品の主要頁と講評掲載:= 4科目膨大な数量になるので多くの作品は解体や返却をしたが、優勝作品は記録が取れた

 なお挨拶はしなかったが、余は以上内容と2005年からの葛野図書倶楽部2001-Blogをすべてダウンロードし記録した。これには、何名ものご隠居たちの助力があった。

 昼の部最後に、夜の部の幹事2003年次が挨拶をした。

★ 夜の部:伏見港・鳥せい
 余は10名ほどのご隠居たちと京阪特急に乗って中書島駅で降りて徒歩10分の北上をした。鳥せいの2階に上がると幹事が数名先に着いていて、テーブルが8人がけで4つの島を造っていた。名札まであって、余は迷わず現役組のテーブルに座った。慣習にしたがって、余の左にタカハシ局長2011、右にヒロセ副長2011が座った。ひょっと前を見ると、サトウハ局長2010がにっこり笑ってカメラを構えてくれた。

 Optorisei 最初に夜の幹事2003年次を代表して久しぶりのキザキ局長2003が挨拶をした。司会は前半をイチカワ三番隊長2003が中心になり、後半はイノウエ書記局長2003がまとめ、最後の一本締めも決めてくれた。

 送別会挨拶はホンダ一番隊長2001/2002が綺麗にまとめてくれた。倶楽部の実働隊長として余人を持って代え難いとは、こういうご隠居のことを言うのであろう。そういえば余も数分の挨拶をした。で、乾杯はこれまた何年ぶりかのヨシオカ局長2004が明るくはなばしく杯を上げてくれた。

プレゼント交換
 終盤に近づきいろいろなプレゼント交換があった。
 儀式としては、常には後輩から卒業生になにかしらあったが、このたびは後輩がいないので、ナガオカ副長2005がまとめ役になって、プレゼント及び長文の「送る言葉」を皆に聞かせてくれた。たしかにこの送る言葉は出色のものであった。

 それぞれが誰に手渡したかは喧噪の中で紛れてよく覚えていないが、送った者は、
 ヨシオカ局長2004、
 ナガオカ副長2005、
 アカエダ局長2007、
 ヤマムラ局長2008、
 ヨシムラ経理局長2009、
 サトウハ局長2010の6名だった。

 現役6人には、ほかにも、ヤマムラ局長2008が秋葉原かどこかで調達してきたとか噂の「変な物」が数種類プレゼントされたよし(実はこの内実は正確にはまだ聞いていない)。

 余にもあった。
 セト局長2002から挨拶をうけた。
 また、一つは2004年次組のヨシオカ、タキグチ、サイダ(欠席)の3人連名で黒い万年筆をいただいた。どこかで、余が大昔、楽譜用に近い太字で、黒インクを使っていたのを聞き及んでいたのかもしれない。余の好み通りのものだったので一種の驚愕を味わった。

 一つは、ほぼ全員の手書きと写真によるメッセージアルバムだった。なかなかしゃれた文言と写真が一杯あった。これこそ人の心の結晶、百万両積もうとも、金(かね)の草鞋を履いて全国行脚しょうとうとも、手に入らないだろう逸品であった。これも事情はまだ聞いていないが、現役タカハシ局長達の思案で、各年次先輩に依頼し、それをシマヅ書記局長2011が中心になって編纂したとか、……。

 現役6名はそれぞれの個性に合わせて送別に対する返礼を述べた。トリはタカハシ局長2011が締めくくった。
 と、宴は3時間以上続いたが、あっというまに過ぎてしまった。

 ヨシムラ経理局長2009が夜の撮影はビデオカメラを定位置にセットして余に向けていた。宴の前半はアカエダ局長2007が別のカメラを手持ちで写しまくり、後半はしらぬまにナガイ副長2007の手に小型ビデオがあった。写真は一応整理したが、余はまだ都合5本のビデオ内容を見ていない。何が写り何が語られていたかは、後日の楽しみとしよう。

 終了間際にアサダ経理局長2003がにこやかな笑みをみせて小声でささやいた。「先ほどレジにいったら、お釣りまで出ました」と、祝着重畳至極也。みたところ、飲み放題にしては泥酔者はでなかったようだ(笑)。
 これでお終い。

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2012年3月 4日 (日)

NHK平清盛(09)ふたりのはみだし者:生まれてくるのが大ばくち

承前:NHK平清盛(08)宋銭と内大臣:悪左府
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 鳥羽上皇と待賢門院璋子(たいけんもんいん・たまこ)の間に生まれた雅仁親王(まさひと:松田翔太)は、さすがに破天荒な青春時代を送っていた。清盛にむかって、生まれてくるのが博打(ばくち)だと言い放ち、対して清盛は生まれ・出自は変えられないが、人生は自分で変えていくことができると言った。

 どちらも一理あるが、今夜は生まれてくるのが大ばくちという考え方にちょっと惹かれた。もともと博打に嫌悪感はないが、20代から近づいてはいない。麻雀も花札も競輪競馬も、ルーレットも、……。近づかないのは実に簡単で、勝負に弱い、と青春時代に味わったからにすぎない。トランプや、双六、麻雀の卓を囲んで勝ったことがない! 勝てないことに執心するほど自虐的ではなかったせいか、やらないなぁ。パチンコとかルーレットは習慣性、依存性が強くて、大抵は家を会社を破滅させるものだ。

 ゲーム、博打に楽しみなんて無いのさ。命がけなんだ。闘争血が全身を滾らせるのだろう、あはは。
 だから、博打には近づかない。

 しかし。今夜の雅仁親王は全身博打オーラが漂っていた。その雅仁に賭けたのも後の信西だから当時も今も、政治ゲームという大ばくちに身を投げ入れるのは、一種の病だと痛切に思った。ゲームだから、止めたくても止められなくなるのだろう。時にはうっぶんをはらすような座布団返しさえ組み込まれていて、一度味をしめれば、また、賭けに投じる。こまったものだ、人の心は。

 ~。
 というのが今夜の大きな感想だった。佐藤義清(西行:さとうのりきよ)が待賢門院に手を出すのも、人の心の鬱玉を私ならほぐすことができましょう、いやほぐしてしんぜよう、という一種ののるかそるかの博打に手をだしたとしか見えなかった。金や地位を賭けるのが博打なら、人の心を操るのも博打の一種。西行のことが少し別の眼で見えてきた。ただ、言葉が流れ出る仕掛けは、どうにも博打仕掛けとは別の事にも思えるが、言葉がでてくるまでは、歌詠みは博打をしている気分かもしれない、脳。

 ということで、今夜は博打に明け暮れた。それだけ雅仁親王の鬱玉が手にとるようによくわかったドラマだった、というのが結論か。

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