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2012年2月10日 (金)

小説木幡記:心の世界

Simg_7539 今にいたっても時々人の心に大きな感動を味わう。人はどうしてこれほどいろいろ物事を考え込む脳を持つに至ったのだろうか、という驚きと不思議さである。
 ただし。人だけではない。
 ひごろハルキ猫と同居しておるので、猫君の身体に似合わない小さな脳と、そこから発せられる日々の行動とに同じような驚きを味わっているのも事実だ。
 要するに、この頃は「心」というものに一層の関心を持つにいたったと言えば良かろうか。

 メモランダムとして。
1.ハルキ猫君は、鴉を遠くにながめて、鴉の鳴き声をまねておる。
 さらに彼は、鳩を眺めて、微妙な違いはあるにしても、鴉の鳴き声と同じような声調で鳴き声をまねておる。

2.ハルキ猫君は猫科として重い方で、体重8キロあるが顔は小さく、めったになかない。ごくまれに、何かを要求するとき、軽く小さくなく。にゃごぉ~、にゃごぉ~、と。

3.余がベッドに横臥しておると、たたたと走ってきて、ドンと胸の上に乗る。そして湿った鼻をなんどもなんども余の鼻や顔全体に押しつけてくる。何十分もそうしていて、余も疲れてくるので布団をかぶり猫君にもかぶせると、のそのそとベッドからはいだして、すたすたと部屋を出て行く。

4.余のしるハルキ猫君の日常はその程度だが、眼をつむって関わりをトレースすると、知能を持った人間の幼児とまるでかわりがない。雰囲気的には長男の幼児期を思い出させる。

5.さて、そこで、人の心。
 心理学という学は勿論あるのだが、余はそれには精通しておらぬので、自らの経験の中から人の心をあれこれ考えて見る。いや、他人の心のことはよいのだ。余自らの心の世界をとつおいつまとめておく。

6.と、余の心の世界はMuBlogにまとめてきたので、それが解になるのだが。
 物語を作り、物語に身を沿わせ、その物語の通りに実人生が動き、ときどき予想外のことに出くわす。と、そういう経験がずっと続いていて、余の心の世界とは、要するにその「物語」を指すようだ。
 ようだ~というのは、それを検証する必要も感じないので、未検証のことは断定せずに、~ようだとぼかしておけばよかろうと、その程度の意味だ。

7.事例は小説のようには派手ではない。
 たとえば余の物語で、おもいもよらぬ破綻をきたしそうな大事件といえば、10日間ほど入院したり、禁煙し禁煙鬱にかかったことくらいだ。人生とはその程度のものだし、それ以上に過酷なことが生じると、余の気力の対応力からして、早死にするだろう(と、還暦すぎて早死にはないでしょう!)。
 だからこそニュースや現実で、余からみて悲惨な人生に見舞われた人をみると、涙する。

8.悲惨な物語は好きではない。
 TVや小説や、そして現実に、ものすごく悲惨なことが描かれておる。現実に現実が描かれていると表現するのは、世界を解釈するのは余の五感とそれに対応した脳の処理によるものだから、現実を現実としてみることはまずできないことで、つまりは余自身が現実をどのように解釈し、そこからどういう結論や感情の動きをえたかにつきる。
 で、番組や小説を見ていて、それが事実かどうかよりも、「どうして、あんな悲惨な心の動きをえがくのだろうか。きっと、多くの人は、人の不幸が蜜の味とわかっておるから、わざわざあんなに悲惨な描き方をしておるのじゃろう」と思うことが多い。

9.と、いろいろ思うところだが、悲惨な現実はあるのだから、実はそれをどのように描けば、余が納得できるかの問題に帰着する。つまり、世界を余がどう解釈するかであって、その解釈とは著しく異なる表現は、今後も余は排除するつもりだ。

10.短い人生。人の悲惨な解釈に身を沿わせるのは止めるのが一番。
 ああ、この世は、人生は、バラ色だね。

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