小説木幡記:もう土曜日だ
いろいろあってMuBlogも休載が続いておる。せっせと小働きばかりしてきて大局観とか全体を見通す余裕もなくただ眼前におそいかかってくる責務といえば責務、洒落と言えば洒落のようなよしなしごとをしこしこやってきた、……。と思った途端にこの一週間どころではなく、ようやく自我がしっかりしてきた時代からかぞえて半世紀、つまるところは、責務と言えば責務、洒落と言えば洒落のめしたくなるようなのが、人生じゃ脳。おさらばしてしまえば、ああもこうもいえなくなるのだから、せめて生きている間は、今様のように遊びをせんとて生まれけりの精神を大切にして、今後の余生を一年か30年か、その間の適当な時間、過ごしてみようとおもったら、とたんに今朝MuBlogが書きたくなった、ということじゃ。
ああ、いつのことか、旅行してきた。四国だった。記しておきたいのは、讃岐の白峯陵と、淡路島の洲本図書館風景と、そして丸亀城の石垣の緻密さと、……。そういえば先年旅した石見銀山もちゃんと記録しておきたいし、最近は纒向遺跡でまた何か出たようだし、……。
忙しいな。
とこれはいま、現今ただいまの感想だが、あれもこれも記録したいと焦る気持ちをおしとどめてMuBlogを休載するのも人生の一種の達観季節かもしれんのう、と思うわけだ。つぎつぎと記事を流し書きする時期も必要だし、ぼんやりとその日の責務を思い浮かべて終日こなしていくのも必要なのだ。
遊びをせんとて生まれても、遊びばかりに専念するとしんどくなって息がつまる。時々は遊びを忘れてじっくり仕事するのも、これも遊び的仕事、遊び的研究として、おもろい、……。などとかんがえながら、きまじめな人士がこんな記事を読むと血相変えたり、あるいは余を憎悪するかもしれぬ。けどな、最近精神分析や、日頃の日常的鬱や、そういう記事など見ていて思うのは、病質はちょっとおいておいて、気質的に狂っていくのは、ものの考え方ひとつで楽にナルト本気で思う様になった。病は気からと言うのは半ば以上、本当の、実に客観的科学的事実だったと気がついてきたのだ。
だからこそ。
遊びに誠実に熱中し、遊び的に仕事したり、遊び的にけんきゅうしたり、遊び的に商売すれば、もっと人類世界が豊かになると思ったねぇ。そのターニングポイントとなった思考は、以下のような簡単なことだ。
人とは、
満漢全席であれフレンチであれ、数皿食べれば栄養も気持ちもなごむ。それ以上は無駄と思えば、人生は気楽じゃね。
(ああ、もちろん文化文明的に、余った皿は奴隷がまっておる、と言う考え方とは別種の話である)
といいながら、明日発売されるHOタイプの古代山陰線を爆走したディーゼル某品が待ち遠しい!!
うけけけ。これも人の世のこと。
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