小説木幡記:京都の魔界というかぁ~
最近隣町であり勤務先の京都市に興味が湧いている。畏友のJoさんも正月早々「京都魔界探訪」と記事があがっており、それに触発されたのだと思う。それにしても箱根の彼方、蛮地・横浜から京都記事をだすのはいかがなものかと、おもうふしもあるだろうが、もともと氏はカンサイジーンだから、なんの支障もない。
さて。
どうして「魔界」と言われるのか~、これはここ20年ほどのいろいろな文化芸能人の働きによって、過去に潜んでいた話が浮上してきたのだと思う。そういう社会現象については、いくつか考証のネタになりそうな文献もあるが、朝から小うるさい説をいろいろいうのは止しておく。
要するに帝都物語があるなら、当然平安京物語があってもおかしくない。千年都だから魑魅魍魎がいまでも市内のそこかしこに潜んでいても、ちっともおかしくない。余もなんとなく摩訶不思議な京都のことは昔から、耳にしてきた。忘れぬうちにメモしておくと。
1.京都御所はずっと西よりにあった。
これは東から西へ、つまり現在の東寺から九条通りを、千本とか新千本通りに向けてあるくと、羅城門跡とか西寺跡とかを見かけるから、どう考えても現代・京都御苑の西を通る烏丸通りが京都の中心、朱雀大路とは思えない。
2.敵は本能寺にありのお寺も、信長当時とは異なる。
これは秀吉が移したらしく、もともとはもっと西の二条城あたりにあったそうだ。
3.五条大橋はもっと北にあった。
現代の五条大橋は9号線(五条通り)にあるが、実はもうすこし北の松原通り(橋)あたりだったと聞いてOru。
だから牛若丸が弁慶を相手に剣舞したのは、場所が違ったようだ。
4.京都の南は巨大な池か湖か
明治時代ころ(正確には昭和ころまで)までは、京都の南は巨大な巨椋池(おぐらいけ)に守られていたようだ。
5.……
と、すこしも魔界らしい話ではないが、それだけ平安京の時代は現代とは違っていたらしいから、魔界と呼ばれても不思議ではない(と、こういう論議の進め方は、無理節・押しすぎるなぁ)。
そうそう、河原町には屍体が山積みされていたし、右京は湿地帯のど田舎だったときくと、感無量になる。
と、そんなところで、魔界京都話は、今度また物語。
大きな地図で見る
羅城門跡
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
京都には怨霊が満ち満ちているようですね
魔界とはどういう意味なのかよく知りませんが、一つ思い出すことがございます。
いつのころでしたか朝早くホテルフジタを出て東京へ帰ろうとして、どうしても鴨川の見えるところでビールを飲みたくなりました。
(今はなきホテルフジタの鴨川が見える部屋は高こうございました)
タクシーの運転手さんにその旨伝えて上賀茂神社くんだりまで鴨川の土手を登りましたがそういう店はございませんで、京都の景観保存の精神に感心しました。
その道中で運転手さんが京都の怨念の歴史を講釈してくれました。
要するに民は三重の支配を受けていた、というのがその説の骨子でした。
お公家さん、お侍さん、お坊さんです。
そういえば室町幕府というのは200年以上も続いたのですね。
そういう錯綜した支配を受けて様々な怨念が巷に満ち満ちたのではなかろうか。
権威、武力、信仰の三つの方向から矢やら刀やらが飛んでくるのでぼちぼち寝てられしまへん。
トライアングルの支配者同士のバトルも激しかったやろし・・・。
こういう運転手さんの有り難いご講義を受けつつも、鴨川の見えるところでビールを飲むことを諦めきれず四条大橋まで引き返して(東華菜館)の屋上でやっとありつけたのでありました。
おかげで(鴨川見つつビールを)の怨念は残らなかったという一席のお粗末。
投稿: ふうてん | 2012年1月13日 (金) 10時06分
そういえば、ホテル藤田を三条大橋から、今朝遠望しました。クレーンがあったような気がします。別のホテルになるんでしたかね。完成したら、行って珈琲でも飲んできます。
さて、平安京といえば、Muよりもふうてんさんがご執心だったことをようやく思い出しました。それにあわせてMuもカテゴリーを定めて記事を書くつもりだったのですが、いつのまにか消えておりました。
また、そういう気分になってきたのは、住んでいるところを大事にするということでしょうな。
鴨川の見えるウナギ屋が四条大橋の西北たもとにあります。
以前別のグループで行きましたが、4階くらいから眺める鴨川や東山はなかなかのものでした。
三条大橋のあたりにある居酒屋も鴨川を見下ろせます。めなみにも近いですしね。
ともかく、深夜バスでもつかって京遊行してください。あれこれと、お手伝いしますよ。
投稿: Mu→ふうてん | 2012年1月13日 (金) 15時58分
お二人さん、おはようさん
今年こそ一度は爺さん三人で『めなみ』で宴会したいですね。
最近読んだ本に『虫と日本文化』だったと思いますが、大変面白かったです。外国では、秋の虫の鳴き声を聞いて、わびしさ、淋しさを感じる文化は存在しないそうです。
しかも、万葉集の時代や奈良時代には存在せず、平安京に遷都後に和歌で虫が登場するという。これは、自宅が都市の中にあり、虫を野原で採取して庭に放ったそうですね。
確かに、鄙な地では虫はうるさすぎて風情などありません、数匹庭で鳴くから、わびしいらしい。要は、都市文化が生まれたということらしい。
魔界が生まれたのも、列島の人々が本格的に経験が始まった都市生活と関係が深いのかも知れないと思いはじめました。葬送もそうですね、鄙な地では森や川もあり、葬送も簡単でした。しかし、都市では場所が無い、そこで、東山の麓や愛宕山麓などが死体累々となったのでしょうね。
投稿: jo | 2012年1月14日 (土) 09時27分
ふうてんさん+Joさん
ということで誌面を借りてご案内。
鴨川や木屋町でうまいものを食べましょうぞ。
さて、
虫が鳴くのは外国人にとっては雑音と同じという説を、右脳、左脳の話を読んでいたとき、知りました。となると、Joさんの話も鮮やかに理解できます。
と、そこから魔界が都市の成立によって~とは、実に上手な論法ですね。
自然だけだと、人肌のぬくもりがある魔界は生まれませんな。
バミューダ沖合の三角地点とか、恐山の怖いガスとかは、自然の猛威驚異であっても、妖しい魔界ではないですから。
都市だからお姉さんが頭にローソクつけて、恨めしいといいながら藁人形に五寸釘を打つのがさまになりますが、人里離れた無人の深山幽谷でそれをやっても、なんか山伏の修行に見えてしまいます。
というわけで、平安京、平城京、長岡京と都はいろいろありますが、魔界ができるには年季がいりそうですね。なんちゅうても、平安京でしょう。あはは。
平安京巡りをいろいろ計画たてますから、ぜひ打ちそろってお越しやすな。
再見
投稿: Mu | 2012年1月14日 (土) 16時29分
そうそう、忘れてました
御所の話ですが、私の知識では元糺(蚕社)と日枝山(比叡山)を結ぶラインの上に存在するとなっていた筈です。御所は元は秦氏の館だと聞いています。
元糺を中心とする聖なるライン、太陽のラインが存在する話と、どう関係してるんでしょうか。
投稿: jo | 2012年1月15日 (日) 09時52分
京都にも太陽線がありましたか?
ちょっとしらべたけど、蚕ノ社、初期御所、比叡山のラインは分かりませんでした。
それと。
地図にラインを引くと、どんな引き方しても大抵古い神社とかパワースポットの上を通りますよ。
なんというか、ラインを引いてから蘊蓄を傾ける話もあるので、このごろライン問題から遠ざかっております。
御所とか比叡山って、広いからね。
投稿: Mu→Jo | 2012年1月15日 (日) 20時09分