小説木幡記:すこしづつ読書
相変わらず数冊の本を枕辺におきベッドに横臥するたびに断片的に読んでOru。
吸血鬼と精神分析/笠井潔は、精神分析とか現象學について言及があるので、大部難しいが、もともと嫌いな領域ではないので気に入って読んでおる。しかし理解が及ばぬ事もあり、ときどき腹がたってくることが多い。人間は自分が理解できない世界に入ると眠くなったり、腹立たしくなるのだと再確認した。
あらためて考えると、精神を分析するとは一体どういうことなのだろう。人はもともと神経症なのだから、まともと思われるのは、一過的な、特異な現れに過ぎない、という風なセリフに出くわすと、にんまりしてきた。ときどき猟奇殺人などがあると、犯人の精神に異常があるとか、心神喪失とか裁判で話題になるが、余はそのての現実をみると別の笑いが生じる。つまり、殺人したりするのが精神に異常のある証なのだから、精神に異常があれば現実的に処罰しないのは、どうにもおかしいと思う。
くりかえすと、犯罪を犯すことが異常なのだから、異常だから処罰しないのは、変な話だな。
それで、もともと人間は狂っているという説もあると、笠井さんの小説を読んでいて理解してきた。小説の効用だな。どうか、余もふくめて皆の衆がまともになれますように、星月に祈ろう。ああ、いまのところでは、笠井さんの小説は、フロイトを中心に描いていて、ユングについては言及が少ない。なんとなく、最後にライヒとかがでてきたら、「お笑い精神小説」になるだろうが、笠井さんはそういう事はなさらぬだろう脳。それにしても先回はハイデガーで、このたびはフロイトと、読者も猛勉強しないとついて行けない。
もう一冊あげておく。私の松本清張論:タブーに挑んだ国民作家/辻井喬.帯には「社会的弱者、差別された側にたつ新しい「民衆派作家」像」とあった。ときどき節単位でよんでいるが、わかりやすい文章で、うんなるほど、と膝を何度も打ってきた。ただし時代背景、環境、いろいろな違いがあって、ときどき「うん? 異なったセンスだな」と思うところも多々ある。つまり現代に生きていると、むかしほどには差別するとされるとが明瞭ではなくなり曖昧としてきて、辻井さんとか清張さんが言うような雰囲気とはことなるなぁ、と思うところがあるからだ。要するに、余など、いちいち書くと腹が余計に立つから書かないが、ものすごく世界や世間から差別されていると思っている。しかし社会的弱者とはまだ思っては居ない。そういう新種が普通になってきたのが、現代なのだろう、……。
もうひとつは、松本清張さんと三島由紀夫さんの対立に言及があったが、ひとつ三島さんが腹をたてたかもしれないことについては記されていなかった。要するに松本さんはある作品で、三島由紀夫さんを完膚無きまでにカリカチュアライズしていて、こんなのを三島さんがよめば、清張さんを憎むだろうな、と思ったことがある。ただし、おそらく早熟な三島さんのほうが先に清張さんを小馬鹿にしだしたのが正解なんだろう。いちいち論証するほどの能力も気力もないが、この件にかんしては、なんとなく清張さんの肩を持つ。余もきっと大人になってきたというか、ふむふむ、高齢化してきたのだろう。
~
と、つまらぬ一日文芸評論家のまねごとは、せぬ方がよいとも思った。
ではまたあした。
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