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2012年1月23日 (月)

小説木幡記:二尊院と西行庵跡や定家卿時雨亭跡

Simg_7546 この正月あけに嵯峨野で鴨なんば蕎麦をいただいたあと、思い立って二尊院を訪ねてみた。もちろんそのことあるをみこしていつも重い一眼レフカメラを車中に置いておるが、それは後日にしよう。二尊院というお寺は小学生のころからなじみ深かった。嵯峨小学校からは指呼の位置だし、第一に同級生にそこの娘さんがいた。お寺のことはよく存ぜぬので、今も同級生の兄弟とか縁者がおられるかどうかはしらぬ。ただ、同級生は余が小学校5年生のころに重い腎臓病をわずらい、はかなく他界した。お葬式のときに、友人の男子が本堂で弔辞を読んでいたのがいまでも思い出される。もう半世紀以上経ってしまった。

 門を入って左側に、西行法師庵跡の石碑があった。
 たしかに、辻邦生の「西行花伝」では、嵯峨野の奥で西行が歌会に参加していた描写が妙に生々しく余の胸裏を行き交った。森浩一の「京都の歴史を足元からさぐる」の嵯峨や嵐山を扱った巻に、西行井戸のこととこの二尊院総門入る左側の石碑についていろいろ記してあった。

 西行が短期間でもどこに庵していたかは興味深いものである。
 ところで後世の鎌倉時代、新古今和歌集に深く関係した藤原定家が、このあたりに庵して時雨亭(しぐれてい)と号し、あの有名な小倉百人一首を編集したとの話がある。新古今和歌集には西行の歌が94首ともっとも多く採録されているのだから、定家が西行のことを思い出して、二尊院のあたりに庵したのは、本当なんだろう。

 さて。
 ところが、時雨亭がどこにあったのかはこの地域で少なくとも3カ所ある。一つは嵯峨小学校近くの釈迦堂のさらにその近くの厭離庵。もう一つは二尊院より南下して東に落柿舎があって、その南西に常寂光寺がある。そのあたりとも言われておる。

 一番平地が厭離庵あたりで、常寂光寺は少し坂の上、二尊院の時雨亭跡は裏山の法然廟を左に登ったところとなる。今夜の余はそれぞれの時雨亭跡の真贋を糺す程の蘊蓄はないが、実際に行ってみると二尊院奥は山深い。定家は卿と呼ばれる上級貴族だから、ちょっと外れすぎだな、平地の厭離庵か? とも思うが。~まあ、よかろう。いつかいろいろ調べてみよう。


大きな地図で見る
↑厭離庵、二尊院、常寂光寺

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