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2012年1月29日 (日)

NHK平清盛(04)殿上の闇討ち:さみなしにあはれ

承前:NHK平清盛(03)源平の御曹司:源義朝という男
NHK大河ドラマ公式あらすじ

あて、というか
 ドラマの終わる頃、紀行が数分あった。これまでのNHKドラマでも、いつも楽しみにしていた。今夜は近所の宇治平等院だった。摂関・藤原家が翳りなくさかえていたころ、関白・藤原頼通の別荘としてまるで浄土を思わせる阿弥陀堂を造った。それが今に残っていて、押しも押されぬ世界遺産である。頼通は全盛期・道長の息子である。
 道長(みちなが966-1027)→頼通(よりみち:宇治殿)→師実(もろざね)
 →師通(もろみち)→忠実(ただざね1078-1162:國村隼・今夜の不気味な意地悪爺さん)

 ところで宇治は摂関家の別荘地だが、実はそこら中に藤原氏の墓があって、誰の墓かわからないものもあってそこここに宇治陵という石柱が立っている。

みどころ
 後の西行、佐藤義清(のりきよ:藤木直人)は清盛と同じ北面の武士だが、さすがに文武両道の良い男というか、堀河局が詠んだ歌をあっけなく、乱れる黒髪などに変えて、璋子さんの歓心をかってしまった。

 清盛の親父さん忠盛が殿上人になったとき五節「豊明宴とよのうたげ」に招かれて、藤原忠実(ただざね)の陰謀で、源為義に殿上で斬り付けられた。忠盛があらかじめ「さみなしにあはれ」というか、出雲建とは逆のことを工夫し、抜いた刀が実は竹光、しかし為義は銀箔にだまされて「飾り刀ではなく、真剣!」と思ってしまった~。こういう陰謀があったのかどうか、忠実がそういう謀(はかりごと)を源為義に命じたのかどうか、すべては古い話なので霧の中。しかし、平家物語でも、今夜のドラマでも、自然に納得できる筋書きだった。

 しかし、ここで忠盛が「王家の犬では終わらぬ」と言ったのはドラマらしい脚色で、源平両方が伸びて「力」を付けないと~と、源為義を説得し刀を引かせたのは、面白いと言えば面白い話だ。ここで歴史的には確かに源平ともに臣籍降下した末裔だから、単なる無頼ではないはずだが、いかにも王家や摂関家とはかけ離れた地下無頼漢扱いされているのが、なんとも~。武力を持ってはいても、摂関家や王家の私兵に過ぎず、往時の栄えある武門の長、大伴氏や物部氏とは全く異なるようだ。

 ということで、また来週。
 追伸
 ところでネットをみていると、視聴率が上がらないようだ。だから大衆の気を惹くようなお色気などを盛り込むとの噂もあった(真偽はしらず)。余は思うに、これでよいと思っておる。視聴率があがらないのは、昔ほどには平家物語や源平合戦が子供らに教えられていないことや~、味のわからないハンバーグやソーセージばかり食べていると、優れたドラマも単純に難しいとか、退屈と思ってしまうのだろう。しかしそんな状態に迎合するのは他の番組の役目だと、余は思う。大体、視聴率なんてのは市長の話と同じで、たわいなものだよな。

◇予習復習
 御所のことを考えていた。昨年春には京都御苑の桜を愛でて写真を撮った。(MuBlog)丁度京都御所を自由に参観出来る日でもあった。引用したMuBlog記事には平安時代の御所と現代の御所とが違う場所にあったと記している。もう少し詳しい図書を見てみると、平安時代初期の大内裏(官庁街)・内裏(皇居)は、火災などで再建が困難になると、皇后実家や有力貴族の邸宅に仮住まいするようになった。これは天皇ごとに、あるいは一人の天皇でも時期毎に次々と変わっていった。現代の位置に皇居が定められたのは中世室町時代・南北朝が統合された頃(1392明徳四年)から、明治2年(1869)までだった。それ以降は、東京の旧江戸城に遷った。らしい。

 桓武天皇が平安京を宣言なすったのは794年、皇居が里内裏(さとだいり)として次々と遷りかわりはじめたのは村上天皇時代の天徳四年(960)に火災で内裏が焼けて、初めて天皇が内裏を出られたようだ。となると、保元・平治の乱頃、つまり平清盛が若かった頃は? 1156~1160年頃のことだが、後白河天皇時代、当然に正式内裏(平安朝当初の位置?)と里内裏(貴族や皇后実家)の間を行き来、併用していたようだ。iPadに入れた角川新版日本史辞典によれば、その古代編に里内裏の変遷が年表になって掲載されていた。
 つまり「高松殿」と言われる邸宅で、姉小路北・西洞院東(あねのこうじ、にしのとういん)美福門院御所(得子さん、松雪泰子)が里内裏になっていて、もともとの再建内裏と一年おきくらいに遷られたようだ(忙しい脳)。


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↑若い頃の清盛、後白河天皇時代の里内裏・美福門院御所の位置? 

 さて、となるともともと桓武天皇時代に作られた大内裏・内裏=皇居がどこであったかは、言葉でしるすと、船岡山・朱雀門~朱雀大路~羅生門のラインにある、御所正門・朱雀門の北となる。この朱雀大路が半端でなくて、道幅が70mあったらしい。となるとこの道幅は現代でいうと、四条大橋の東西擬宝珠の間が70m程度ある(勿論川幅よりも広い)から、相当な道幅だった。3m程度の幅を持つ駐車場だと、20数台が列ぶ広さだ(笑)。
 具体的にいうと、現代の千本丸太町東北と『平安京再現/井上満郎』には記してあった。


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↑平安京当初の内裏(千本丸太町東北・つまり二条城の北西方向)

 平清盛の若い頃の皇居は、現代の御所から考えると、相当に西にあったようだ。

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