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2012年1月29日 (日)

NHK平清盛(04)殿上の闇討ち:さみなしにあはれ

承前:NHK平清盛(03)源平の御曹司:源義朝という男
NHK大河ドラマ公式あらすじ

あて、というか
 ドラマの終わる頃、紀行が数分あった。これまでのNHKドラマでも、いつも楽しみにしていた。今夜は近所の宇治平等院だった。摂関・藤原家が翳りなくさかえていたころ、関白・藤原頼通の別荘としてまるで浄土を思わせる阿弥陀堂を造った。それが今に残っていて、押しも押されぬ世界遺産である。頼通は全盛期・道長の息子である。
 道長(みちなが966-1027)→頼通(よりみち:宇治殿)→師実(もろざね)
 →師通(もろみち)→忠実(ただざね1078-1162:國村隼・今夜の不気味な意地悪爺さん)

 ところで宇治は摂関家の別荘地だが、実はそこら中に藤原氏の墓があって、誰の墓かわからないものもあってそこここに宇治陵という石柱が立っている。

みどころ
 後の西行、佐藤義清(のりきよ:藤木直人)は清盛と同じ北面の武士だが、さすがに文武両道の良い男というか、堀河局が詠んだ歌をあっけなく、乱れる黒髪などに変えて、璋子さんの歓心をかってしまった。

 清盛の親父さん忠盛が殿上人になったとき五節「豊明宴とよのうたげ」に招かれて、藤原忠実(ただざね)の陰謀で、源為義に殿上で斬り付けられた。忠盛があらかじめ「さみなしにあはれ」というか、出雲建とは逆のことを工夫し、抜いた刀が実は竹光、しかし為義は銀箔にだまされて「飾り刀ではなく、真剣!」と思ってしまった~。こういう陰謀があったのかどうか、忠実がそういう謀(はかりごと)を源為義に命じたのかどうか、すべては古い話なので霧の中。しかし、平家物語でも、今夜のドラマでも、自然に納得できる筋書きだった。

 しかし、ここで忠盛が「王家の犬では終わらぬ」と言ったのはドラマらしい脚色で、源平両方が伸びて「力」を付けないと~と、源為義を説得し刀を引かせたのは、面白いと言えば面白い話だ。ここで歴史的には確かに源平ともに臣籍降下した末裔だから、単なる無頼ではないはずだが、いかにも王家や摂関家とはかけ離れた地下無頼漢扱いされているのが、なんとも~。武力を持ってはいても、摂関家や王家の私兵に過ぎず、往時の栄えある武門の長、大伴氏や物部氏とは全く異なるようだ。

 ということで、また来週。
 追伸
 ところでネットをみていると、視聴率が上がらないようだ。だから大衆の気を惹くようなお色気などを盛り込むとの噂もあった(真偽はしらず)。余は思うに、これでよいと思っておる。視聴率があがらないのは、昔ほどには平家物語や源平合戦が子供らに教えられていないことや~、味のわからないハンバーグやソーセージばかり食べていると、優れたドラマも単純に難しいとか、退屈と思ってしまうのだろう。しかしそんな状態に迎合するのは他の番組の役目だと、余は思う。大体、視聴率なんてのは市長の話と同じで、たわいなものだよな。

◇予習復習
 御所のことを考えていた。昨年春には京都御苑の桜を愛でて写真を撮った。(MuBlog)丁度京都御所を自由に参観出来る日でもあった。引用したMuBlog記事には平安時代の御所と現代の御所とが違う場所にあったと記している。もう少し詳しい図書を見てみると、平安時代初期の大内裏(官庁街)・内裏(皇居)は、火災などで再建が困難になると、皇后実家や有力貴族の邸宅に仮住まいするようになった。これは天皇ごとに、あるいは一人の天皇でも時期毎に次々と変わっていった。現代の位置に皇居が定められたのは中世室町時代・南北朝が統合された頃(1392明徳四年)から、明治2年(1869)までだった。それ以降は、東京の旧江戸城に遷った。らしい。

 桓武天皇が平安京を宣言なすったのは794年、皇居が里内裏(さとだいり)として次々と遷りかわりはじめたのは村上天皇時代の天徳四年(960)に火災で内裏が焼けて、初めて天皇が内裏を出られたようだ。となると、保元・平治の乱頃、つまり平清盛が若かった頃は? 1156~1160年頃のことだが、後白河天皇時代、当然に正式内裏(平安朝当初の位置?)と里内裏(貴族や皇后実家)の間を行き来、併用していたようだ。iPadに入れた角川新版日本史辞典によれば、その古代編に里内裏の変遷が年表になって掲載されていた。
 つまり「高松殿」と言われる邸宅で、姉小路北・西洞院東(あねのこうじ、にしのとういん)美福門院御所(得子さん、松雪泰子)が里内裏になっていて、もともとの再建内裏と一年おきくらいに遷られたようだ(忙しい脳)。


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↑若い頃の清盛、後白河天皇時代の里内裏・美福門院御所の位置? 

 さて、となるともともと桓武天皇時代に作られた大内裏・内裏=皇居がどこであったかは、言葉でしるすと、船岡山・朱雀門~朱雀大路~羅生門のラインにある、御所正門・朱雀門の北となる。この朱雀大路が半端でなくて、道幅が70mあったらしい。となるとこの道幅は現代でいうと、四条大橋の東西擬宝珠の間が70m程度ある(勿論川幅よりも広い)から、相当な道幅だった。3m程度の幅を持つ駐車場だと、20数台が列ぶ広さだ(笑)。
 具体的にいうと、現代の千本丸太町東北と『平安京再現/井上満郎』には記してあった。


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↑平安京当初の内裏(千本丸太町東北・つまり二条城の北西方向)

 平清盛の若い頃の皇居は、現代の御所から考えると、相当に西にあったようだ。

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2012年1月26日 (木)

小説木幡記:心が病むと言うこと

Sdsc_0152 世間や同僚や学生や余自身や~を眺めていて、心が病むと言うことはどういうことなんだろうと、考えることがある。

 ただ、相対化すると、何割かの人が余を眺めて「あの人は、心が病んでいるな」と、思っているのかもしれない。
 いろいろな病み方があろうが、明るくて騒々しい病み人を阪急電車で二駅、数分間眺めていた。初老の男性だった。ミステリ好きか警察すきか検察好きなのか、あるいはそういう世界ですごした経験があるのか、あるいはTVドラマのミステリ物によく出演していたのか、ファンなのか、大声でやたら「捜査」とか「証拠」とか「現場」とか言い出して、誰か若い者を叱責している様子だった(全部、独り言だ)。ふ~む。

 学生達の場合は。
 余は一応センセ役なので、騒がしくなく静かな心の病み人に出くわすと、それなりの対応をしなければならない。気にしなくてはならない学生数が、赴任した20年前よりも増化したとするのか、あるいはその頃は余自らのことに気が向きすぎて、学生のことまで手が回らなかったのか(笑)、ともかく近頃スロット(要するに余の記憶管理域の小部屋)数が増えてきた。何かをするわけではない。気になると余は小部屋にその学生の名札を貼り、なにか発生するとそこにメモを投げ入れておく。要するに顔色を見ているわけだ。欠席数が増えてくると面談もする、……。

 同僚達の場合。
 余がいろいろしなくても、大抵は他の同僚達や上司達がなんとかかんとか破綻しないように持って行く。余もその破綻しない温存列車にしらぬまに乗せられているのかもしれんがのう。そういえば、おもいあたるふしもあるなぁ~ケケケ。

 世間。
 これは相当に狂っておると思う。以前はまともだと思っておったが、今の眼からみると相当におかしい。どうおかしいのかといちいち記していくのは、日曜評論家では出来ない。
 ただ、こうはいえる。
 世界を動かしているのは大体50代の男女が参謀本部で、40代の男女が実践指揮部隊で、30代が尉官クラス。そして20代が突撃隊。とするなら。
 50代の男女の考えや根性やねじくれた思想や世界観で世界を動かしていることにナル。どうりで。この何年間、いやこれからも、これまで一応敬意を持って眺めていた政治や経済の中枢達の言動が、本当に馬鹿馬鹿しく思えてきた~。考えて見れば、未熟で経験不足でアホな連中が、世界や余の老後を動かしておるのだ。

 と。相対的に見るならば。余も、小さな世界で、そう思われてきたのだろうなぁ、と長嘆息。おもいあたるふしもなきにしあらず。
 世界は動く、万物流転、パンタレイ。合掌。
 心が病んでおると言うよりも、人間存在自体が歪なのじゃろう、この虚空のただ中で。

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2012年1月24日 (火)

京静華(京都市・岡崎)の杏仁豆腐

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 京都岡崎、観世会館の西にひっそりとお店がある「京静華」に行ってみた(ワープロ変換は大抵、「精華」とでるが、「静」の華である)。まるで美味しんぼ世界だった。要するにひっそりこっそりしすぎて、普通に生きているとなかなか気が付かない。私は暇だから昼日中にFMラジオを聞いていて、その店の噂を聞き、その日の内に予約した。

 グルメでもないし、たべなれているわけでもないので、写真をまとめて記録しておく。もし言葉でいうなら、ふんだんに京野菜を使って、丁寧に、出来るだけ無駄油をぬいて、あっさりと、しかも中国3000年の歴史を偲ばせる豊潤な味わいをかもし出した。

 料理は全体芸術と思うなら。
 もう少し言葉を尽くそう。
 インテリアがすっきりしていた。お皿や器が清潔・上等に思えた、トイレが美しかった。お店の人が実に懇切丁寧に接してくれた。ご主人が、見送りまでしてくれた。気持ちがこもっているなぁ。

 そんな中でも、絶品と思えた品目を三点あげておく。人によって好き好きもあるだろうが、これまでも意外にこういうものに心をうばわれてきた。もともとヒラメやカレイの煮魚が好きだし、スープは飲むのじゃなくて食べると考えてきた。そして、デザートはそれまでの料理を全部白にも黒にも変えてしまう恐ろしい魔力を秘めた食べ物なのだ(笑)。

↓ひたひたスープに蒸したヒラメ
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↓スープ: すっぽんやトリフュ入りの、かみしめるお味。
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↓杏仁豆腐: 絶品。今夜からは他の杏仁豆腐がまがい物に見えてくる。
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京静華、関連ネット記事
☆ 門上武司のおいしいコラム (京 静華)  
☆ 関谷江里の京都暮らし : 岡崎の美しい中華 「京、静華」 2008年12月
☆ いつか・住もう・京都 「京 静華」


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京静華は中央建物二階の右端↑

追伸
 電話は、075-752-8521
 夜だけのようで(2012年1月時点)、コースが8000円だった。贅沢したので三日間ほど絶食する。


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2012年1月23日 (月)

小説木幡記:二尊院と西行庵跡や定家卿時雨亭跡

Simg_7546 この正月あけに嵯峨野で鴨なんば蕎麦をいただいたあと、思い立って二尊院を訪ねてみた。もちろんそのことあるをみこしていつも重い一眼レフカメラを車中に置いておるが、それは後日にしよう。二尊院というお寺は小学生のころからなじみ深かった。嵯峨小学校からは指呼の位置だし、第一に同級生にそこの娘さんがいた。お寺のことはよく存ぜぬので、今も同級生の兄弟とか縁者がおられるかどうかはしらぬ。ただ、同級生は余が小学校5年生のころに重い腎臓病をわずらい、はかなく他界した。お葬式のときに、友人の男子が本堂で弔辞を読んでいたのがいまでも思い出される。もう半世紀以上経ってしまった。

 門を入って左側に、西行法師庵跡の石碑があった。
 たしかに、辻邦生の「西行花伝」では、嵯峨野の奥で西行が歌会に参加していた描写が妙に生々しく余の胸裏を行き交った。森浩一の「京都の歴史を足元からさぐる」の嵯峨や嵐山を扱った巻に、西行井戸のこととこの二尊院総門入る左側の石碑についていろいろ記してあった。

 西行が短期間でもどこに庵していたかは興味深いものである。
 ところで後世の鎌倉時代、新古今和歌集に深く関係した藤原定家が、このあたりに庵して時雨亭(しぐれてい)と号し、あの有名な小倉百人一首を編集したとの話がある。新古今和歌集には西行の歌が94首ともっとも多く採録されているのだから、定家が西行のことを思い出して、二尊院のあたりに庵したのは、本当なんだろう。

 さて。
 ところが、時雨亭がどこにあったのかはこの地域で少なくとも3カ所ある。一つは嵯峨小学校近くの釈迦堂のさらにその近くの厭離庵。もう一つは二尊院より南下して東に落柿舎があって、その南西に常寂光寺がある。そのあたりとも言われておる。

 一番平地が厭離庵あたりで、常寂光寺は少し坂の上、二尊院の時雨亭跡は裏山の法然廟を左に登ったところとなる。今夜の余はそれぞれの時雨亭跡の真贋を糺す程の蘊蓄はないが、実際に行ってみると二尊院奥は山深い。定家は卿と呼ばれる上級貴族だから、ちょっと外れすぎだな、平地の厭離庵か? とも思うが。~まあ、よかろう。いつかいろいろ調べてみよう。


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↑厭離庵、二尊院、常寂光寺

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2012年1月22日 (日)

NHK平清盛(03)源平の御曹司:源義朝という男

承前:NHK平清盛(02)無頼の高平太:白河法皇崩御
NHK大河ドラマ公式あらすじ

先付け
 今朝、ドラマのあらすじを眺めていたら、「瀬戸内海で自称船の警護役」をしていたと書いてあったので失笑してしまった。というのも、現代用語で「自宅警備員」という職業があると學生達の話題から学んだが、これは要するにニート、引きこもり、家にこもった人をさすようだ。隠遁者との違いなど不明な点は多々あるが、この「船警備員」も、清盛が一門のまとめ役、武門の長となることから遁走し、政界財界とも断捨離した状態をさすのだろう。平家の御曹司がこのていたらくのままでは、なかなかドラマが成立しなくなる、のう。

 ちなみに御曹司は、当時の言葉では源家によく使われ、後日の平家では公達(きんだち)とよばれた。曹司とは部屋で、若い者の部屋住みをさし、名門名家に多いから、ええとこの坊ちゃんらしい。源家だと似合うとも思った。というのも、後の源九郎義経だが、鎌倉の兄・頼朝のもとへ初めて行ったとき、兵ももたないこの弟に頼朝は部屋を与え、それなりの待遇をしただろうが、回りの者達は、九郎殿とも呼べないし、弟ごさまでもないし、御曹司とよんでいたような、そんなイメージが湧いた。

さてみどころ
☆ 清盛が京の都の雑踏で遊んでいるようなくだを巻いているような場面で、朽ちかけた羅城門(かどうかは?)の2階を写していたが、とてものこと週間TVドラマとは思えなかった。深みや汚れ(笑)や精細さは、当時の平安京を俯瞰している気分になった。
 今回の映像は、良いと、毎回思っている。
 随分丁寧に根気よく写しているせいか、本当に平安京のスラムを歩き回っているような気分になった。

☆ 璋子(たまこ)さんはいささかぷっつんというかあっけらかんとしているというか、ご主人の「鳥羽上皇」に対して息子の崇徳天皇のことを、「白河院の種ですし、叔父子(おじご)といってよいのですから、かわいがってやってください」という意味のことをさらりと言ってのけた。
 つまり白河院の息子が堀河天皇で、その弟が崇徳天皇だから、堀河天皇の息子である鳥羽院からすると、自分の正妻の子である崇徳天皇は、叔父であり、自分の子であるという、じつに『暗黒館の殺人/綾辻行人』的なアクロバットさ加減である。

 勿論、崇徳天皇が璋子さんと鳥羽上皇との間の本当のお子さんなら、こういうことはブラックジョークにすぎないが、その後の騒乱を見ると、実話のような気がする。
 今夜もりょうさん(堀河局)が縦皺をよせて、鳥羽院のことで心を痛めていた。
 (今回の女優陣はいつにもまして、おのおのがた、濃い女性が多いな。このりょうさんと杏さんは双璧だ)

☆ さて、後の西行法師(佐藤義清のりきよ:藤木直人)とか源義朝(玉木宏)とか、今をときめくイケメン君たちがそろそろ姿を現してきた。いつぞやのガクトさんほどの異様さではないので、普通の意味でのええ男という感じがしますな。いやはや史実の上でも、西行さんはなんと北面の武士として、うわさの待賢門院璋子さんと道ならぬちぎりをもってしまうし、また、義朝さんは、正妻との間には後の鎌倉幕府創始者頼朝の父となり、千人に一人の超絶美女「常磐御前」とは天才義経の父となるわで、~史実の色男と現代男優の色男ぶりとが交錯して、なんとも不思議な雰囲気がありました。

★ ということで、来週あたりは、平忠盛が闇討ちに遭うとか遭わぬとか、そろそろ清盛さんも根性いれなおさないと、なんてこった、大変だぁ~。

◇予習復習
 清盛・義朝の年齢差は5歳だった。そのことをまとめると次のようになる。

   平清盛 1118~1181 64年間
   源義朝 1123~1160 38年間

 清盛と義朝がともに世間で一躍名を上げたのは保元の乱だったから、そのときの年齢を次に示す。
 保元の乱 清盛・満38歳 義朝・満33歳 (1156年 保元元年)

 次に3年後、清盛が勝利し武家の代表となり、源義朝が破れ殺害されたのは平治の乱だったから、そのときの年齢を次に示す。義朝が殺害されたのは東国へ逃走中に身を寄せた尾張国だった。
 平治の乱 清盛・満41歳 義朝・満36歳 (1159年 平治元年)

 清盛が5歳年長だった。年齢差が関係するのかしないのかは、多分無関係と思うが(笑)、保元の乱の様子を『西行と清盛/五味文彦』では、わかりやすく、清盛は近畿一円から家の子郎党とその配下による兵300を集め、源義朝は東国を中心に主従関係にある兵200を集めたという。同書によれば、乱平定後の恩賞は平家に厚く源家に薄かったよし。清盛は播磨守(兵庫県南西部)となり、主立った親戚が昇殿を許された。義朝は右馬権頭(うまごんのかみ:兵馬権・警察権のような職の次官あたりか?)で、親族ともども昇殿を許された。播磨守とは差がある。

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2012年1月21日 (土)

小説木幡記:JMRIだけでなく、Appleが冴えてきた: iBooks Author

Simg_7547 昨年は電脳関係が豊かだった。今年も続き、余は日々快調な思いが胸に溢れる。

1.DCC: 鉄道模型
 これはJMRIの深さにますますのめり込んでおる。と、実は別の事情もある。国産のDCC用品でDP1という機器がある。これを国際的なJMRIと接合させるために、南福岡九州急行鉄道さんがアプリケーションを開発し、以前から公開されていて、余もこれになじみ初めて、実に満足である。
 JMRIは底深いのでいろいろな利用法があるが、余は必要な列車のスロットル(制御板表示形式)をPC画面にすべて開き、さらにポイントもすべて番号単位で開き、マウスクリックするだけで、必要な列車、必要なポイントをまとめて操作出来る状態にして使っておる。

 Python、Jythonでプログラミングする醍醐味よりも先に、画面にすべてを描きだし、ボタン操作するだけで車両がある程度自由自在に個別に扱える醍醐味を、昨年から味わっておる。
 これは想像以上に素晴らしく思えた。

2.iBooks Author
 昨夕インターネットニュースでこの、iBooks Authorなる文字をみつけ、「Author?」と引っかかり、もしかしたら電子書籍オーサリングシステムかぁ~と思い、記事を読んだらまさしくそうだった。しかし、昨夜は疲労激しく眠ってしまい、今朝確認し、夕方からダウンロードして使い出した。無料で日本語化されていた。

 今は詳細は語らぬ。
 ただ、余は電子書籍制作に関して学内の某所から研究費をいただいておって、昨日までずっと考え込んでいた。要するに、資源、データ要素はすべて集めていた(Word文書、写真、ビデオ~)のだが、一昨日までの世界では、それを自由自在に図書化するにはものすごい年季というか技術とそして資金が必要だった。
 報告書を書くのはすぐそこに来ているのに、事態は絶望的だったので、秋からはとりあえずのPDF化を始めていた。勿論、それだけでも2年間の授業や研究成果のまとめとしては意味を持つのだが。

 で。昨日から今日にかけて。
 余が求め、想像し、考えていたところの電子書籍オーサリングシステムを、アップル社は無料で世に問うた。
 なかなかに、世の中は面白い、脳。

3.それにつけても作品採点、繁忙極致
 余の葛野職場は従来からICT先行投資がされていて、成績管理や出欠管理には実績がある。だから、昔に比べると随分と気楽になったのだが~しかし、學生達の制作した作品やレポートを自動判定するほどには革命が進行していない(笑)。依然として、学生の作った色鮮やかな目録やレファレンスチャートは、余が肉眼でながめ、頁をめくり、採点しておる。(うむ、紙質にねばりがあって、良い脳~とか、ふむインク色に潤いがないな。これは廉価再生インクを使っておるな)
 いやはや採点、これさえなければ大学教員はうむふむ気楽じゃが~しかし試験採点が無くなれば、余は何をしてよいのか、立ち止まってしまうぞよ。

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2012年1月20日 (金)

小説木幡記:言葉の背景「先生とK」

Simg_7553 「先生」と「K」といえば夏目漱石の「こころ」のことだが、先週、ある若い同僚の近代文学講義を授業参観した。非常に優れた講義として、人から参観を薦められたわけだ。実は昨日も続きがあったのだが、すでに余は猛烈な、いつ終わるともわからぬ目録作品の採点に入っており、欠礼した。で、一週間前の授業内容の詳細については措く。ただ感動が実に深く、機縁あって、その先生と話をする機会が生まれた。同じキャンパスにいても学部や学科が異なると、よほどのことが無い限り、エレベータ中での立ち話程度しか生まれないものだが、幸運にも専門家の話を直にうかがうことができた。

 そのとき、余はいささか勘違いをしてどうにもサマにならない質問をした。
 そこで、一週間も経ったので冷静にそれを考え直してみた。

 つまり、小説作品中で「K」というよそよそしい記号を使ったのは、「先生」も漱石もKに対して相当に距離を置いた、余の感触では冷淡な関係を持って、描いたのでは無かろうか、という解釈があったとしよう(笑:事実あるようだ)。で、余は「しかし、先生といわれるほどの馬鹿じゃなし、という地口があるほどに、『先生』という呼称も冷淡、突き放した記号用法ではないでしょうか?」と、言ってしまったのだ。

 若い同僚は勿論首をかしげたが、余が高齢(爆:たしかにな)だったせいか、強い反論はなく、「いえ、明治末ですが、そのころはまだ「先生」という呼称は世間的に上等だったと思いますよ~」程度で終わった。

 で、一週間たって思い返した。記号・Kと、記号・先生とでは、後者は「師」とか「老師」とかいうほどに値打ちのあるもので、それが明治大正時代だと、まさに現代のような軽く扱われた「センセ」とか「(代議士)先生」とかとは大きく異なると実感・気付いた。

 ということで、現代でも過去でも、ある言葉がどんな風な意味合いで使われたかを考えるのは大切だと思った。そういう考証は難しいことだが、おそらく象牙の塔の住人はそういうことを解明するために時間と情熱とをかける必要があって、それあってこそ現代「先生」と呼ばれるにふさわしいと思った。

 余の分野でいうと、中国なら秦の始皇帝時代、日本でも飛鳥時代や奈良時代の初期には、「本」といって直ちに現代の紙図書を想起するのは間違いの元だということがある。紙の図書が普及する前に、長い時代、竹や木に文字を書いてそれを紐で綴ったものが多かった~。また、以前にうかがった、萬葉集時代には雨が降ると恋人同士の逢瀬はあり得ないとか~、本当に現代から考えると想像もつかない世界があったと、なかなか「先生」が居ないとわからないものだ。

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2012年1月19日 (木)

小説木幡記:日々朝型人生

↓梅小路蒸気機関車館のジオラマ
Sdsc_0105 毎朝のことだから随分時間をかけたセレモニーだなと、我ながら思う。いや、たいしたことではない。起床から外にでるまでの手順だ。

 目覚める。99%は「うむ、よく寝た。まだ暗いな。おお、4時か、起きるべえ」となる。
 部屋の外には99%、ハルキ猫君が控えておる。冷蔵庫に行って、鰹節をほんのひとつかみ、提供する。
 うがいだけをする(歯を磨くと、味わいが無くなる)
 トイレに行く。
 90%は、トイレのドアにハルキ猫君がぶち当たってくる。要するに、「食べたぞ~、次!」
 そこで8キロ近い猫君を抱きかかえて、外にでる。約50m歩いてそこで解放する。
 まるでわんこみたいなハルキ猫君はそこら中を「くんくん」と嗅ぎ回る。
 やがて家に走って帰る。余は後から付いていく。

 さて、トースト。
 隔日ごとにゆで卵をつくる。
 毎日食べると、さらに太るから。気を付けよう。
    丸い方をカツンとあててヒビ入れる。(抜群に美味くなる)
    沸騰とともに瞬時にガスを切る。
    4分間放置する。
    正確に時間とともに冷水で冷やす。
    完了。岩塩で食べると、半熟で美味しいぞ。
 トーストにはバターを小指の先。蜂蜜を親指の先。
 飲み物は冷茶。

 次に新聞。
 一面と三面記事と文化欄を読む。
 やっと洗顔。歯磨き。
 着替える。
 ハンカチやティッシュ。靴下まではき、完全即時外出可能まで整える。
 PCをオン。
 メルを見て、MuBlogを書くこともある。
 大体午前6時~7時ころに出発。
 葛野に着いたら、まだ早いので、落ち着いて朝寝する(笑)。
 8時半頃に第二の起床をして、講義や演習、あるいは校務に備える。

 うむ。時間を湯水のように贅沢に使っておるな。
 しかしその分、就寝は午後9時ころかな。
 そういう日々である。
 (寝てばかりいるような気にもなる)

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2012年1月18日 (水)

小説木幡記:芭蕉・西行と讃岐の崇徳院・白峯陵

 NHK平清盛のことで記事を書いていたとき、京都の白峯神宮に行き着いた。そこでなにか記憶の断片が脳の片隅で光り、気になっていた。そのときは、芭蕉との暗合だった。しかし讃岐の白峯陵と縁の深い人は、崇徳院と同時代の西行で、その西行を通して近世の芭蕉が結ばれると言う話を、保田與重郎の『現代畸人傳』で眼にしていたのだ。この、西行と芭蕉の結び付は、保田先生の特徴で、余も先生のいろいろな著書でそのことについて眼にしてきたわけだが、なかなか知識や情感が余自身の深い血肉になっていなかったせいか、NHK大河ドラマの先読み(保元の乱)をしても、思い出せなかった。

 今朝、現代畸人傳を紐解いてみると、崇徳院と西行、後醍醐天皇と芭蕉、そして西行と芭蕉という結び付に日本の文學史の命のようなものがあるという話があった。少し長くなるが、以下に引用しておく。

 後鳥羽上皇の少しさきの時代のことだが、崇德上皇に對し奉つた西行のこころを、近世日本文學史の序章とすることは、まづ穩健な考へ方であるが、西行の身のおきどころとした、西行文學の生命の終着は、白峯陵だつたのである。このことあつて、芭蕉の志の生成の理も理解できるのである。わが國の思想史上に南朝を大きく顯揚したのは、水戸の義公であるが、文學者として始めて、太平記の南朝を詩人のつひの心のなげきとして、文學史上にかかげたのは、他ならぬ芭蕉である。それが元祿文藝復興の詩だつた。吉野山にのぼり、西行庵のとくとくの淸水に身心を淸めた芭蕉が、いよいよ吉野山の數ある名所舊蹟の中へ入つていつた時、すでに日は黄昏に近づいてゐる。この芭蕉は名ある名所舊蹟の數々をさしおいて、まづ後醍醐天皇の塔ノ尾陵に詣でるとしるしてゐる。これはわれ一人ゆく人の激越な文章である。~略~わが朝文人の風習に從つて、芭蕉は白峯陵の西行を先蹤とし、目標としたのである。しかし白峯への旅はつひに生命ある間に實現されなかつた。芭蕉は白峯陵をさす途中、大坂で死んだのである。(現代畸人傳・天道好還の理/保田與重郎)


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↑崇徳天皇白峯陵:白峯寺

参考
 白峯寺公式サイト

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2012年1月17日 (火)

小説木幡記:DNC:センター試験

Sdsc_0143 数日前、日本中のたくさんの若者(高校3年生が中心かな、50万人以上)達が一斉に同時刻、同一の試験を受けた。二日間だった。

 余も某所で、その国語の時間に試験監督をした。
 何科目も受ける生徒達も大変だが、試験会場を設営して、準備して、監督するのも難行苦行だ。余なんかいつもは気楽な大学生活(笑)しておるが、毎年いまごろ、役(えき)のような監督が回ってくると緊張して前夜も眠れなくなり、当日は朝から青い顔して控え室の机に突っ伏しておる。
 まして受験生はずいぶん緊張しているから、ちょっとしたことでも気分が落ち込むようなのだ。
 だから、日頃の余からするとお笑いのような真似をしておる。

1.前夜から水断ちなのだ。
 試験監督の一人がうろうろ廊下に出てトイレへ直行するのはよくない。
2.前夜からスーツや靴を整える。
 年に数回、旗日にしか身につけないネクタイやスーツを用意し、靴音のしない、それでいて目立たない靴を用意する。もちろん靴下の色を赤とか紫にできるわけがない。
3.斎戒沐浴
 一応は教室を巡回するから、ニンニク臭も、加齢臭も、オードトワレ臭も、整髪臭もすべて御法度。まるで無色無臭透明人間になったような~。
4.睡眠十分にとる
 監督中に居眠りしたり、欠伸したりすると、たちまち受験生から訴えられる。
5.監督前
 スマホを研究室に置く。もっていくと無意識にスイッチを入れて、着信音に軍艦マーチなんかがなると、アウト。
6.試験前試験中試験後の表情
 お通夜表情を練習する。受験生に歯を見せて笑うなんて、天誅をうける。

 さて、相当に長く社会生活をしている余にそこまで細々しく強いるのは一体どこのどなたか。受験生さまなのか。それとも日本國の官僚たちなのか、政治家達か、保護者たちか、~あれあれ、余の属する組織か?

 おおもとの、独立行政法人・大学入試センターのサイトをひらき、「何故、こういうセンター試験をするのか」を調べてみた。すると「センター試験の役割」という頁があって、そこに事情がいくつか記されていた。

 ふむふむ。
 なるほど。
 ほお。そうなのかい。

 と、50万人も60万人も毎年一斉に受験してきたセンター試験の事情をながめてみたが、実に日本人らしいというか、学歴世界というか、形式的というか、無意味というか、一体こういうシステムをそもそも発案なさったのはどういうお方なのか、と興味が湧いてきた。善意が仇になるとはこういうことなのか。と、この年になって眼から鱗が落ちた。教育思想の一つが上手に官僚や世間を巻き込んで、人質取られた親御さんの賛同を上手に引っ張り出して、センター入試を超精密システムと同じく完璧に動かすことが日本の未来を保証する。と、そういうノリだな。いや、元来科挙試験に強い官僚が先導したのだろうな。

 教育は難しい、と余の心底の吐息が今、でた。
 義務教育が国家百年の計を支えた。しかし全国一斉「センター入試」が百年の計を支えるかどうかは疑わしい。壮烈な無駄だったと、余は思う。

傍証
 試験の手際を失敗したくらいで、受験生かわいそうとか、試験関係者を犬畜生扱いしたり、試験中に着信音がなったくらいで監督者を厳重注意したり、あるいは試験会場が大騒ぎになったり、~。非現実的な世界を試験中だけに適用し、破綻したからと言って大騒ぎするのは、ほんとうに、みんな正気なのか? この試験さまのおかげで、日本の大人度は著しく減じた。

 余はシステムに対して一家言ある。
 破綻するようなシステムを提案したり採用するのが、一番の間違いなのだ。
 想定外も想定内も関係ない。破綻しないシステムを導入すべきなのだ。もともと全国一斉同一条件なんてのは、発狂システムだな。そういうことは、曲芸であって、毎年上手くやってこれたとしても、褒められることではない。
 1点の違いに数千人が居る。怖い世界だ。発想したひとは、そういう世界が好きだったんだぁ。それに容易にほいほいと乗るのがわが愛すべき日本人なのかもしれないな。

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2012年1月15日 (日)

NHK平清盛(02)無頼の高平太:白河法皇崩御

承前:NHK平清盛(01)ふたりの父:白河法皇と平忠盛
NHK大河ドラマ公式あらすじ

ちょっと小鉢の、あて
 数日前に神戸市の市長さんが、この大河ドラマの画面が汚い! と怒っていらした。あとで記事を読むと、その市長さんの発言に対しても、反対して怒った人が沢山いたようだ。神戸は、清盛が福原遷都をしたというか、別荘を造った縁のあるところだから、そこの市長としてはご自身の美学、様式美にあわせて、NHKドラマにケチをつけたのだと思う。今回のことは「いやはや市長さんでもご当地NHKが気になるのか」とおもって、笑っただけですませた。私も大人になったもんだぁ(笑)。

 神戸市長さんや世間のきれい好きには、面白くないだろうが、いかにも歴史物という仮想現実感を出すには、今回の画面のよごれ、汚さが、私の気持ちをぐーんと引きずり込んだ。視聴率がどうのとあるが、あはは、「余が心底愉しめればそれでよし」と、思っておる。

さて見どころは
 平清盛は殺生禁止令にとがめをうけた自分の友達の父のことで白河法皇に会いに行くが、結局「物の怪の血を分けた男だから、生きながらえた。清盛!」と渇を入れられて退散した。後日、舞を父の忠盛に習い、白河法皇の前で披露するが、法皇からは「武士らしい舞であった」と言われた。

 将来の乱を見越したような伏線として、今夜も鳥羽上皇(三上博史)と璋子(たまこ)(檀れい)さんの絡みがあった。その気持ちの複雑さを、上皇が璋子の付き人堀河局(りょう)に愚痴るのがなかなかぐちぐちしていて、ドラマらしかった。しかし堀河さんの反応が今少しわかりにくかった。彼女は後世、西行さんと歌のやりとりをするほどの才媛で、私の考えでは、璋子さんと堀河さんがいれかわってもおかしくないようにおもえたが、……。ようするに璋子さんが鳥羽上皇の寝所に入ったとき、堀河さんが悲痛な顔をなすった。これは鳥羽上皇のお苦しみ、お気持ちを察しての上か、あるいは、鳥羽上皇のお手が堀河局にかかっていたのか。千年も昔のことだからよくわからないが、女優のりょうさんを起用するくらいだから、鳥羽上皇と堀河局とに親密さがあったと仮定してのこととも思える、なあ。
 ともかく、鳥羽上皇のお立場は、堀河さんにぐちるほどにしんどいことだったのは事実なのだろう。待賢門院璋子さんは幼女のうちから白河さんのそばにいてその庇護と濃密な愛(今なら完璧なロリータ役だね)のもとで育てられ、性格なのか資質なのか、男性に対しては自由に気持ちや身を任せていたふしがあり、さらにそれだけ多くの男性を惹きつけるだけの美貌と気質とを備えていたのだろう。

 そうそう清盛や後の源義朝のことだが、まだまだ若い内はなんとも言いようがない。今夜の清盛は昔から見てきた織田信長の若い頃の逸話に似ている。初代・中村錦之助の信長の茶筅髷や荒縄の帯を思い出してみていた。しかし実際清盛の時代の元服がいくつくらいかは調べぬと分からぬが、十代中頃と想像する。するとその年で、実父が忠盛ではなく法皇かもしれないと噂を聞けば、おかしくなってぐれてもしょうがないな(笑)。

 おもしろかったのは深夜に清盛が落馬して大声で愚痴っていたとき、「そんなことはどうでもよい、助けてくれ」という声が天から聞こえたのが実に良かった。その声の主が高階通憲(後の信西)(阿部サダヲ)だったのだが、俳優の声調がなかなか気持ち惹かれるところがあった。

 さて来週は、源平の御曹司がライバルとして顔を合わせるようになる。青春じゃねぇ~。

◇予習復習

保元の乱:保元元年(1156)
 今夜白河法皇(伊東四朗)が崩御されたが、やがて鳥羽上皇(三上博史)が権勢を持ち、さらに鳥羽上皇が崩御される。歴史はどんどん進んでいく。と、保元・平治の乱になるが、これは高校生の時の日本史で、分けがわからずに往生した。要するにここで、平清盛が頭角をはっきり出すことになる。

 つまりこのとき、鳥羽上皇の崩御とともに天皇家で皇位継承争いが生じ、これに摂関家と武士(源氏、平氏)とがそれぞれ身内間で別れて、保元乱が生じた。勝利者は弟の後白河天皇派で、敗北したのは兄の崇徳上皇。

A:天皇家
  ○後白河天皇(松田翔太)+美福門院藤原得子(なりこ)(松雪泰子)
  ●崇徳上皇(井浦新ARATA)→讃岐で憤死
   その後、上皇の恨みと思われる凶事が重なり、
   京都市左京区聖護院塔頭の積善院に「人喰らい地蔵:崇徳院地蔵尊」が作られ、怨霊鎮めがあった。
   また、京都市上京区白峯神宮に祭られ、神となった。
   注記:長岡京時代の早良親王を鎮めた崇道神社と、保元の乱の崇徳上皇を鎮めた白峯神宮
       とを間違って訪れる人のいることをトリックにしたミステリ小説があった。
   注記:日本三大怨霊のお一人。菅原道真(天満宮)、平将門(神田明神)、崇徳上皇(白峯)のお三人。

B:摂関家
  ○藤原忠通(堀部圭亮)
  ●藤原頼長(山本耕史)
C:平氏
  ○平清盛(松山ケンイチ)
  ●平忠正(豊原功補)
D:源氏
  ○源義朝(玉木宏)
  ●源為義(小日向文世)+源為朝→鎮西八郎為朝とよばれ有名


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↑白峯神宮


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2012年1月13日 (金)

小説木幡記:京都の魔界というかぁ~

0img_4712 最近隣町であり勤務先の京都市に興味が湧いている。畏友のJoさんも正月早々「京都魔界探訪」と記事があがっており、それに触発されたのだと思う。それにしても箱根の彼方、蛮地・横浜から京都記事をだすのはいかがなものかと、おもうふしもあるだろうが、もともと氏はカンサイジーンだから、なんの支障もない。

 さて。
 どうして「魔界」と言われるのか~、これはここ20年ほどのいろいろな文化芸能人の働きによって、過去に潜んでいた話が浮上してきたのだと思う。そういう社会現象については、いくつか考証のネタになりそうな文献もあるが、朝から小うるさい説をいろいろいうのは止しておく。

 要するに帝都物語があるなら、当然平安京物語があってもおかしくない。千年都だから魑魅魍魎がいまでも市内のそこかしこに潜んでいても、ちっともおかしくない。余もなんとなく摩訶不思議な京都のことは昔から、耳にしてきた。忘れぬうちにメモしておくと。

1.京都御所はずっと西よりにあった。
 これは東から西へ、つまり現在の東寺から九条通りを、千本とか新千本通りに向けてあるくと、羅城門跡とか西寺跡とかを見かけるから、どう考えても現代・京都御苑の西を通る烏丸通りが京都の中心、朱雀大路とは思えない。

2.敵は本能寺にありのお寺も、信長当時とは異なる。
 これは秀吉が移したらしく、もともとはもっと西の二条城あたりにあったそうだ。

3.五条大橋はもっと北にあった。
 現代の五条大橋は9号線(五条通り)にあるが、実はもうすこし北の松原通り(橋)あたりだったと聞いてOru。
 だから牛若丸が弁慶を相手に剣舞したのは、場所が違ったようだ。

4.京都の南は巨大な池か湖か
 明治時代ころ(正確には昭和ころまで)までは、京都の南は巨大な巨椋池(おぐらいけ)に守られていたようだ。

5.……

 と、すこしも魔界らしい話ではないが、それだけ平安京の時代は現代とは違っていたらしいから、魔界と呼ばれても不思議ではない(と、こういう論議の進め方は、無理節・押しすぎるなぁ)。
 そうそう、河原町には屍体が山積みされていたし、右京は湿地帯のど田舎だったときくと、感無量になる。
 と、そんなところで、魔界京都話は、今度また物語。


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羅城門跡

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2012年1月11日 (水)

小説木幡記:すこしづつ読書

Sdsc_0154 相変わらず数冊の本を枕辺におきベッドに横臥するたびに断片的に読んでOru。
 吸血鬼と精神分析/笠井潔は、精神分析とか現象學について言及があるので、大部難しいが、もともと嫌いな領域ではないので気に入って読んでおる。しかし理解が及ばぬ事もあり、ときどき腹がたってくることが多い。人間は自分が理解できない世界に入ると眠くなったり、腹立たしくなるのだと再確認した。

 あらためて考えると、精神を分析するとは一体どういうことなのだろう。人はもともと神経症なのだから、まともと思われるのは、一過的な、特異な現れに過ぎない、という風なセリフに出くわすと、にんまりしてきた。ときどき猟奇殺人などがあると、犯人の精神に異常があるとか、心神喪失とか裁判で話題になるが、余はそのての現実をみると別の笑いが生じる。つまり、殺人したりするのが精神に異常のある証なのだから、精神に異常があれば現実的に処罰しないのは、どうにもおかしいと思う。

 くりかえすと、犯罪を犯すことが異常なのだから、異常だから処罰しないのは、変な話だな。
 それで、もともと人間は狂っているという説もあると、笠井さんの小説を読んでいて理解してきた。小説の効用だな。どうか、余もふくめて皆の衆がまともになれますように、星月に祈ろう。ああ、いまのところでは、笠井さんの小説は、フロイトを中心に描いていて、ユングについては言及が少ない。なんとなく、最後にライヒとかがでてきたら、「お笑い精神小説」になるだろうが、笠井さんはそういう事はなさらぬだろう脳。それにしても先回はハイデガーで、このたびはフロイトと、読者も猛勉強しないとついて行けない。

 もう一冊あげておく。私の松本清張論:タブーに挑んだ国民作家/辻井喬.帯には「社会的弱者、差別された側にたつ新しい「民衆派作家」像」とあった。ときどき節単位でよんでいるが、わかりやすい文章で、うんなるほど、と膝を何度も打ってきた。ただし時代背景、環境、いろいろな違いがあって、ときどき「うん? 異なったセンスだな」と思うところも多々ある。つまり現代に生きていると、むかしほどには差別するとされるとが明瞭ではなくなり曖昧としてきて、辻井さんとか清張さんが言うような雰囲気とはことなるなぁ、と思うところがあるからだ。要するに、余など、いちいち書くと腹が余計に立つから書かないが、ものすごく世界や世間から差別されていると思っている。しかし社会的弱者とはまだ思っては居ない。そういう新種が普通になってきたのが、現代なのだろう、……。

 もうひとつは、松本清張さんと三島由紀夫さんの対立に言及があったが、ひとつ三島さんが腹をたてたかもしれないことについては記されていなかった。要するに松本さんはある作品で、三島由紀夫さんを完膚無きまでにカリカチュアライズしていて、こんなのを三島さんがよめば、清張さんを憎むだろうな、と思ったことがある。ただし、おそらく早熟な三島さんのほうが先に清張さんを小馬鹿にしだしたのが正解なんだろう。いちいち論証するほどの能力も気力もないが、この件にかんしては、なんとなく清張さんの肩を持つ。余もきっと大人になってきたというか、ふむふむ、高齢化してきたのだろう。

 ~
 と、つまらぬ一日文芸評論家のまねごとは、せぬ方がよいとも思った。
 ではまたあした。

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2012年1月10日 (火)

小説木幡記:日常繁忙と閑散

Sdsc_0098 本格的に授業がはじまったようだ。昼時間にドアノックがあって顔をだすとみなれた顔が二つ、「先生、すみません、屯所(資料室)を開けてください」「うん。どうした?」「先輩達の過去作品を見て、今作っているのと比べるつもりです」「ほお、熱心な」

 部屋を開けて入ると、冷蔵庫並に冷えていた。北向きの寒い部屋だが、外気温が低く曇り空だと北向きも南向きも関係ない。ともかく2人を入れて、電気と暖房を付けて余はまた研究室にもどった。

 明日の授業と明後日の授業の詰めを朝からしていたのだ。おおよそは年末に仕上げていたが、油断したせいか、最後の詰めに手間取った。簡単なことだ。受講生にとって60点がボーダーラインで、一点でも少ないとまた来年再履修することになる。ところが、数字・成績の魔術というか、この58とか59点とかが実に多い。約10%ある。それを年末は放り出して正月を迎えたわけだ。しかし、いざ決着日が近づくと(つまり通年授業で、相当に過酷な科目については、点を示して、一応受講生の言い分を聞くようにしている)、あらかじめ余は素点を決定しなければならぬ。1点か2点を加算する理屈をあれこれ個人単位で考えねばならない。でないと、加算されない者は黙ってはおらぬ。またなぜ加算されなかったかもきっちりと落とし前を付けねばならぬ。

 ~
 評価とは。上等な評価とは何か。単純だ、努力の精華ないし成果を、理由付けて評価することである。その理由は正当でなければならない。そこが難しい。

 ということで、最後の1点か2点に悩むのが、この20年近くの常態であった。だから、このことにはおそらく深淵な理由があるのだろう。曰く、板子一枚下は地獄。曰く、虚実皮膜。曰く、○○と◆◆とは紙一重。曰く、勝てば官軍、負ければ賊軍。曰く、恋愛と戦争は、取った者勝ち。~ああ、よいたとえが思いつかない。後半はだんだん意味を外れていくような思いがする脳。

 ともかく、余の忙しいは無能の証。暇なのは、人生黄昏の印。どっちもこまったことじゃわい。
 一息ついて一時前に屯所にもどったら、倶楽部員が1人で弁当をたべ、客人も一人ふえておった。みんな熱心に勉強しておる、あはは(笑)。

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2012年1月 9日 (月)

小説木幡記:紺屋の白袴・PC持ち込み可能図書館?

0img_4653 最近は毎年春に、余は学科の大学一年生たちを引率して近所の上等な公共図書館へ行く。全員参加の社会実習だから、この若者達が将来も余の講義を受けるわけではない。情報図書館学や司書職に興味を持つ学生は、だいたい10%内外なのだ。余の授業を受ける者となると、さらにマイナー世界になる。

 いろいろ事情もあって、引率の同僚の先生や上級生達と相談し、事前に受講生を全員集めて「ケータイ、スマホは館内でつかうな」「館内席で化粧するな」「席でおしゃべりするな」~と、まことに気恥ずかしいような注意をこんこんとする。そんな注意は大学生に向かって不要でしょうと高をくくってオルト、大変なことになる(笑)。行事は4月はじめだから、まるで18歳の女子高生と変わらないところもある~。女子中高生といえば、昨年夕方の京阪電車内で、やおらお弁当箱をとりだし食事をはじめた女子学生もおった。だから、今年あたりは図書館でやおらゲーム機をとりだして、奇声をあげながら、静かな公共閲覧席で踊り狂う新種の学生が出てくるかもしれない。
 ともかく、近頃は世代間断絶を深く味わうことが多いのである。

 ところで。
 本論だ。
 いろいろ思うところがあって、公共図書館へPCや研究書を持ち込んで、お勉強したり調査したりしようと思い出したが、はたと迷った。
 まず大学図書館と違って、公共図書館はその府県市町村に住んだり通勤通学していたら、すぐに利用券をだしてもらえて、図書の貸し出しができる。館内利用だけなら、原則自由に出入りできる。

 ところが、PC持ち込み&利用となると、これが実にいろいろあって、館種や市町村の考えによって異なる。なぜそうなのかは、事情は3つ程度あって、旧来の考え方と現代事情とが混じり合っておる。

1.図書館は図書を貸し出すところであって、その場で読書したり独自研究・自習したりするだけの空間もサービスも提供できない、と言う考えがある。
 これはなぜそういう考えがあるかは、省略して、深くある。だから、PC持ち込んでゲームの研究をしたり、ただ単純にネット接続の便宜その他を提供するのは駄目だ、あるいは学生がPC持ち込んで卒論書いたりするのは、大学図書館の仕事だから、公共図書館ではお断りする~という考えが根底にある。
 この考えの妥当性は論議しない。事実、結果としてPC利用制限のある公共図書館は存在する。

2.騒音問題。静かな空間で、だれかが高速でキーボード操作したり、あるいはこっそりYouTube利用などをしだすと、うるさく感じる人がでてくる。これを神経質な利用者となじることは難しい。余のようにとろくさいキー操作だと気になることもすくないが、機関銃みたいに連打されると嫌になる。また、イヤホーンを付けていても、ゲームの効果音やアチョーなどと奇声が漏れ聞こえると、迷惑だ。

3.盗電というか、電源利用問題。これは近頃重量級のスマホでもそうだが、PCは電池が切れるとどうにもならないから、ACを利用したく思う人が多い。古いPCだと小一時間で使えなくなるから、当然とも言える。しかし電気代は図書館といえども無料ではない。全国の図書館や博物館での水光熱費はものすごいものだ。しかし現代公共機関で、冬寒く、夏暑い施設だと人が来なくなり、仕切り直しされて潰される野蛮な都市もある。だからこそPC盗電も許せぬ、という基本的な考え。

 とまあ、いろいろな表にでにくい問題がからんで、公共図書館でのPC利用は制限の多いところがある。


 余は研究室や自宅書斎にいると、回りに食物や飲料やあるいはおもちゃ、あるいは便利屋稼業が忙しくなって、集中出来ないことに気がついた。そろそろ休日くらいは公共図書館を利用して、PCでがんがん論文をものしようと思い出したが、はてさてPC利用は? と紺屋の白袴。実情を知らないことに気がついて、慌ててネットで調べだした。

 宇治市の図書館は分からなかった。気になったので宇治市中央図書館へ出向いたら、成人式が文化ゾーンであって、駐車どころか、自動車が停滞で動かなくなった。途中で抜け出して、行けなかった(笑)。

 京都市は、右京図書館と京都市中央図書館だけが、PCを持ち込み利用可能となっていた。うむ、他は駄目ということだな。

 京都の上、植物園近くにある京都府立総合資料館は、特定部屋だけならPC持ち込み利用が可能だったが、残念ながら、自由に使える130席以上の自習室ではPC利用は禁止されていた。多分、騒音問題だろうかな?

 岡崎の、京都府立図書館は、PC持ち込み利用が可能だが、電源施設は使えないとのことだった。電気代問題かな?(笑)

 ということで、余はこの5カ所を順繰りにそれとなくこっそりと使うことに決めた。余は、見知らぬ司書さん達からちょっと注意をされたりすると、身体が震えて、当分はその施設を利用出来ない神経だから、少しずつ使い回せば、問題も生じないだろう。狎れるときっと、閲覧席でアタリメをかじりながら、独り言をつぶやきながら、キーボードを使い出す。時々不意に居眠りして寝言を言う。そういうクセはときどきなら見逃されても、毎日ならきっとブラックリストに載せられそうだ。週にすこしなら、見逃されるじゃろう。

 いやはや公共図書館を使うにも、なかなか心の準備が必要じゃな。 

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2012年1月 8日 (日)

NHK平清盛(01)ふたりの父:白河法皇と平忠盛

承前:なし
NHK大河ドラマ公式あらすじ

 さっき見終わった。ふぅーっと息をはいたな。画面雰囲気が、龍馬伝を思い出した。白河法皇(伊東四朗)が相当な曲者と思った。メークも怪物じみて映え渡っていた。ずろんとしたお引きずりのような男性版打ち掛けを羽織って院の御所を動く姿はこれこそ皇家の一つの極と感じ入った。いや、白河法皇ひとりではなかった、……。
 そもそもは頼朝が平氏滅亡のしらせを、妻政子(杏あん)から聞くところからの回想シーンで始まるが、それにしてもこのような北条政子の造形を見たのは初めてだった。この気性なら愛する頼朝の浮気相手と赤子を住家ごと焼き尽くしたという伝説も腑に落ちる、それほどのオーラだった。さらに、今回で亡くなった盗賊「おぼろ」の異様さも、……。
 現代の映像美は、かくして私が若い頃にみた大駱駝艦とか唐十郎世界の臭うような異様さがいたく心の琴線に触れた。新しいカブキ者達が精緻なディジタルTVの画面に躍る、踊る。
 松山ケンイチ清盛がどうなのかはまだまだ分からないが、平安朝末期の豪奢とスラムと匂い香りと臭う腐臭とが入り交じって、「ああ、NHKも随分かわったきたな」と、心底嬉しくなった。

 来週が楽しみだ。

◇予習復習
1.海国記/服部真澄(新潮文庫、上下)
 以前読んで思ったのは、平氏と西国の海賊・水軍とは敵対関係ではなくて一体のもの、ということだった。海の国とは、漁撈だけでなく、貿易を意味する。当時の貿易は、大国・中国の宋(南宋)が相手で、九州博多や越前敦賀が交易の港として栄えた。宋との貿易は清盛の父、平忠盛時代から熱心だった。この服部さんの小説は博多や瀬戸内海、そして京の都が舞台になった、海から陸への絵巻であり、そこに清盛も生きた。

2.平清盛 (Gakken Mook)
 書店には沢山の「平清盛」関係図書コーナーがあった。その中でたまたま学研のものを入手した。俳優女優情報が少なかったからだ(笑)。イケメン、美形の役者達は毎年好ましく思っているが、その情報はNHKの公式サイトにあるから~わざわざ生身の役者のことを予習復習する必要もない。
 で、このムックのp4~5にかけて「清盛時代の京都:平安京が洛外へ展開」という見開き写真解説があって、これが気に入った。復元模型は、「京都市制作・京都市歴史資料館」とあるから、京都御苑の南の東から寺町通りを少し北上し、見学するのがよいだろう。
 そこで、白河法皇がどこに住まっておられたかがひとめでわかる。白河殿に物の怪のように棲んでおられたよし、怪物だったわけだ。現在の岡崎公園あたりかに、高さ80mの塔を持つ法勝寺を建てたとのこと。この白河殿の区画は単純に岡崎あたりと言っても、現実的ではない。ムックの地図写真では、北東が吉田山にかかり、南西が鴨川の二条にかかる。

3.梅小路公園と若一神社:清盛晩年の西八条屋敷あと
 これは地図を下に上げておく。平清盛は晩年、現京都市の南で七条通と八条通の間、西は新千本通と東は大宮通の区画に大きな、御所と言われるほどの建物群を作った。
 この西八条殿を今風に言い直すと、なんのことはない「梅小路蒸気機関車館・展示館、梅小路公園」あたりである。ところが一方、むかしから西大路八条角にある「若一神社(にゃくいちじんじゃ)」にも、西八条殿跡という伝承がある。両者は、いずれも私が自動車で通勤する道筋なので、近いといえば近いが、地図でみると離れている。昔の事だから、いろいろ話が混じり合ったのだろう(笑)。


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清盛の西八条殿跡

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2012年1月 7日 (土)

小説木幡記:土曜散歩・明治天皇陵

Sdsc_0150 京阪電車中書島で降りてそのまま北へ歩いた。10分ほどで商店街に入ったので左右を眺めながら適当な昼食処を眼でおった。創作料理と読めて、ああ無国籍ものか、と通り過ぎようとしたが、880円でお造りと鶏唐揚げその他小鉢とあったので、ふらりと入ってそれを注文した。客は数名いたが全部ご近所の人に見えた。

 そのまま大手筋に出て、今度は東に向かってゆるやかな坂道を登っていった。というよりも、大手筋という名前だからこれは安土桃山時代、織豊政権下の桃山城大手門に通じる道の名残かもしれない。左手にサンマルクが見えたので、看板をながめてみると、小振りのシュークリームと珈琲のセットが390円とあった。またふらりと入ってしまった。しかしシュークリームをスプーンで嘗めながら、「こんな甘い物を食べながら、わざわざ珈琲に砂糖やミルクを入れる人はおるのかな?」と、そっと見渡すと、店内一杯の多くの人がシロップの蓋を開けていた。余は迷わずブラックのままいただいた。

 そこからさらに東へ、丁度京阪電車の踏切を渡った頃から、坂道が一層身近に感じられるようになった。毎日ここを歩いて通勤する人は随分と身体によかろうな、と物思いにふけりながら歩き続けた。しかし御香宮の前あたりになると坂は緩やかに見えるのに「おお、きついな」とため息をついた。そこからまだまだ延々と歩き、24号線やJR奈良線をわたり、ついに参道に入った。

 明治天皇さんのお休みになっている処だ。

 足腰がなれたのか、参道に入るとだいぶ楽になり、「ああ、自動車の走らない道はよいな」とつぶやきながら、途中休みもせずに一気に御陵前まであるいた。そこで帽子をはずし、黙祷を捧げた。なにかしら、明治大帝がいなすった御蔭で、日本は植民地にならずにすんだなぁ、という深い感慨があったのだ。大帝をもりたてる人達の気が充満していた時代が、明治時代だったと思うのだ。

 帰りは遠く昔の巨椋池を幻視しながら、宇治川を眺め、眼のくらむような階段を機嫌良く下りた。下について京阪宇治線の桃山南口駅に着いたときは、さすがに歩き疲れて電車に乗った。うむ、文明の利器じゃ。座るとほっとした。今日は昼食やお茶や散歩で2時間強、実質4キロほど歩いたことになる。土曜散歩としてまずまずだ。


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2012年1月 6日 (金)

小説木幡記:一瞬の快感

0img_4628 なにか一瞬の時が訪れて、「ああ、よかった」とか「長生きはするもんだ」とかあるいは「これまでの努力が稔った」といとも簡単に人生を輝くものと受け取ってしまう。
 事実は、そういう感動は数秒~数分で終わって、あとには砂を咬むようなじゃりっとした日常や、うつうつしい明日のことが控えてOru。ただ数秒であっても、明日が耀き希望へのときめきに胸たかなるのも、これも紛れもない事実なのだ。

 輝ける事実を時や秒で計るのはやめよう。
 輝くようなときめきがあったこと。そしてそれがまたいつか訪れることに、うっとうしい昨日今日明日も耐えられるというものだ~などと、余がどんなに不幸な毎日を送ってOruのかと思ってもらっては困る。余は毎日規則正しく半熟タマゴをいただいて、昼は豪華なランチを近所の一膳飯屋でとって、それなりの仕事をして、日が落ちると極楽三昧で夕餉を囲み、湯気に曇った風呂場で鼻歌を歌い、ベッドに入って電気を消したら瞬時に眠り、気付いたら翌朝だったという毎日を送ってOru。

 さて、輝ける一瞬を記録しておく。

1.ハンダごてから流れたハンダが一瞬にして細いより線全体にしみ通り、数秒後にはワイヤーがハンダの均一皮膜に覆われるとき。これは温度やハンダの量や、対象より線の汚れ具合など、いろいろな条件をくぐり抜けてはじめて、綺麗にメッキされたようになる。難しい技だが、成功したとき快哉を上げる。

2.早朝の国道一号線で、アクセルを軽く踏み込んだだけで、一瞬にしてのきなみ他の自動車やバイクをバックミラーにおさめ、なお当然のごとく法定速度時速60(午前七時前まで)キロに収まるとき。これは自動車メーカが社会的に隠している事実だが、現今のファミリーカーであっても車種によってはスパルタンな走りの潜在能力が実に高い。

3.お気に入りの天ざる1150円をいただいた後、蕎麦湯をダシに注ぎ一口飲み、本わさびの香りを味わったとき。

4.お気に入りの鴨ナンバ1300円をいただき、最初に分厚い鴨肉を口にいれたとき、じゅわりと地肉の豊かさが口腔を満たす、その一瞬。

5.熱燗で、最初の一口。本当に腹に染み渡る日本酒のよさ。もちろん高級酒の冷酒もフルーティーで良いものだが、冬の熱燗はたまりませぬ。

6.優れたミステリに出くわし、数頁読んだときの、未生の物語への恍惚感、たかまり、痺れます。

7.夏休みや春休みが始まる前日。これは、幼稚園時から今にいたるまで、最高の悦楽じゃったのう。

 などと、あんまりお金も手間暇もかけずに結構な楽しみは、あるものだ。ただし、それを味わうには心のゆとりも必要なのだ。となると、心のゆとりをもてば、人生はちょっとしたことでバラ色になる、あはは。

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2012年1月 5日 (木)

小説木幡記:そろそろ仕事時期の一月

Sdsc_0110 ぼんやりとはしておられない一月が始まった。後期末であり本当の仕事年末なのだ。二月や三月になるともう翌年度、つまり四月からの仕事に入ってしまう。だから余にとって一月が一番神経を使い繁忙になる月なのだ。

 ところが人は皮肉なもので、回りが忙しく高速に回転しだすと、かえって脳幹が冴え渡ってきて他の別の案件に心がどんどん傾斜していく。たとえば、ミステリの『吸血鬼と精神分析/笠井潔』は実によろし~うふうふと読書の快に心を酔わせ、返す刀でああ、ハンダごてをもう数本買ってこの世のありとあらゆるものをハンダ漬けにしたい~とか。

 あるいは皮肉なことに年末に自製したubuntuマシンが実はMacを除いて、余の所持する最速のマシンではなかろうかとふと考え込んだり、本当につぎからつぎへと忙しい最中に脳が活発に走り回る。年末からずっと都の怪異を調べることにも手を出し始めたし、昨夜は帰りに書店によって、平家物語・平清盛のムックを買ったりと、これまた愉しいことが山盛りに思えてきた。

 というわけで、来年のシラバス(授業要項)をあと数日で定稿にせねばならぬし、そろそろ会議も始まるし、などと、生きている証というか、税金は未納にすると倍返しを要求されるし~。ほんに、生きていくとはしんどいこっちゃ。今日も昼寝して時を過ごそう。それで生き返る。ああ、忘れていた。まだ三輪さんにお参りしていないし、三輪素麺も食べてはOran。
 新年早々しこしこと仕事するなんて、罰当たりな正月じゃ。

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2012年1月 3日 (火)

小説木幡記:今城塚古墳の今昔

↓石見銀山
Smuimg_7015 元日の夜はドラマ「相棒」を見て堪能した。上手な脚本だし、面白い面々だった。二日の昼はずっと部屋の片付けに専念したが、永遠にまとまらないような気がしてきた。原則、読んだ小説は処分する方向をはっきりとうち出した。そうでもしないと、破綻する。これは今月中半まで続きそうだし、まだ葛野も残ってOru。

 高槻市の今城塚古墳を年末に畏友Joさんと見たのだが、これについて読書していると、古代史関係の人達の中にも、再整備がやり過ぎとの意見があるようだ。もともと公園化することに大反対のグループもあると聞く。さて、余の印象や感想や考えだが。余は「これでよい」と思っておる。もともと砦にされたり、地震で壊れかけたり、畑や田んぼになったり、遊び場になったり、自転車曲乗りの練習場になったり、それはそれは1500年間、時々の現世人たちに自由好き勝手にあつかわれてきたのだから、それなりの意味があったのだろう。「墓」という意味であらゆる別種目的に使われることを忌避する考えもあろうが、もともと人が造ったものだから、次代のものが不要と考えれば、墓・古墳を潰してあたらしい古墳や建物を造ってきた歴史がある。墓と言えば、一村全員まとまって盗掘に励んだ歴史もいろいろある。

 現代の高槻市が今城塚古墳を大切な古墳とみなし、長い年月と長い資金投下のもとに、新しい形式の前方後円墳をつくり、そのそばには無料の資料館展示館まで造って、ひとびとに開放しているのだから、木が切られようが、周壕が現代の都合にあわせて壊されようが、「反対」とか「醜悪」とか「嘘」とかとは少しも思わない。人はそれぞれ思いがあろうから、現代日本ならある程度までその思いを口に出し、人を巻き込み運動するのも自由だが、できあがった今城塚古墳公園をみて、にんまり微笑む余がいるのも事実だ。「ようやった。ただの古墳を、ここまで綺麗にしてくれた。」と。

 余はこれを書いていて思った。
 今城塚古墳が更地にされて売られたり、その中がUSJとかTDLみたいになったなら、高槻市や住民が発狂したというだろう。しかし現実にはきちんと整備されて、埴輪のレプリカが飾られて、無料の資料館が開設されたのだから、これほどめでたいことはない。少なくともこの百年は、高槻市のやったことが大多数の少年少女への良い影響として現れるだろう。つまり「歴史を学び、過去を知る」ことに意味を見いだす。
 その後のことはわからぬ。ミサイルが刺さったり、地震で真っ二つに割れるかもしれない。そんな先のことまで責任はとれぬ。
 と、正月早々、今城塚古墳のことに思いをはせていた。


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2012年1月 1日 (日)

小説木幡記:平成24年が始まった・脳構造を再構成

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 年が明けて目覚めると床の中で「よーし、がんばろう」と思う。一体なにをがんばるのかは、余にもよく分からない。「がんばろう」という言葉の意味は、普通は自分の心身を80%以上稼動させてことに当たろうという意味である。
 しかしたとえば。
 「ゆったり過ごすことにがんばろう」とは、がんばって心身稼動を3%くらいに押さえつけるということを意味する。人は生きている限り不安や怒りや憤怒や嫉妬や諦観におそわれ続けるものだが、それをがんばって押さえつけて、心穏やかになろうということなのだ。
 こうして考えて見ると、余の「がんばろう」は世間とは時に逆に働くこともあるのだと、ようやく悟った。つまり自己を制御して鎮めるためには、ものすごいエネルギーが必要なんだ。たとえば、暴走した原子炉を穏やかに鎮めるには想像を絶する工夫と力を注がねばならぬ、それと同じだ。

 ことしもいろいろがんばろうと思う。しかしそのがんばりの基本には、それ相当の工夫とエネルギーをそそぎ心身基底を制御調整しなければならない。経験的に一番手がかかるのが、「ふさぎ」「鬱」「諦観」「投げだし」だな。これらは要するに世間や人生を虚仮と見なすことからくる。もちろん聖徳太子様のような上等な意味での世間みなこれ虚仮、ではなくて、「ああ、つまらぬ。おもろない。くそったれ。気分凹む~どうせな、みんな死ぬのじゃ。なにをやってもな~」と、随分下等な世間みな虚仮説だ。どうせ死んでしまうのだから、何をしてもしょうがない。という、普通の人生虚仮論じゃ。これだけは克服しないと、毎日毎日が禁煙鬱のように暗く重く、立っては居られないほどの荷重、重力に倒れ込む。さらに病的になると、床や道が形を保たなくなり、ぐにゃりと凹み流砂のように流れ、倒れたりして、歩けなくなり、身の置き場も無くなってしまう。こういう状態は若い頃のこととか、一昨年の禁煙鬱の時に、近似的に経験したが、辛いものだ。これを何とか克服しないと動けなくなる。そしてこれを克服、工夫、調整するにはものすごいエネルギーが必要になる。

 ああ、方法はある。
 脳を酷使して、過去や現在の否定的暗部に引きずられる心という心を斧で切り落とし剝がしていき、純粋脳の核だけをとりだして、全力全速で体験的経験的「希望」「夢」「快楽」「安息」など、プラスの世界観、思考を無理やり脳内に再構築するわけだ。これをするのは鬱期だともうへとへとになるほど、しんどい、辛い、死んでしまいたくなるような過酷な労働を脳にさせることになる。別の意味で起き上がれなくなる。
 しかしこれに成功すると、おかしなことに、新たな夢や希望がじわりじわりと湧いてきて、日々が愉しくなる(笑)。

 これには常日頃から充実した時の脳内構造を意識しておく。要するに愉しい日々を「覚えておく」。
 私論では、幼児期、幼い頃の幸福感、達成感が無意識の奥底に蓄えられていると、強烈な鬱になっても、生きる力をみなぎらせる世界観を再構築しやすい。

 ああ。
 これだけかいて、今年はなんとなく、今まで以上に心穏やか、充実した時間を過ごせそうだ。
 うむ、ふむ。
 各位に長年お世話をかけたことが、ようやく、余の精神を安定させて余もそれなりに成熟してきたようである。
 皆の衆、ありがとう! 
 ことしもよろしく。

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