小説木幡記:平成24年が始まった・脳構造を再構成
年が明けて目覚めると床の中で「よーし、がんばろう」と思う。一体なにをがんばるのかは、余にもよく分からない。「がんばろう」という言葉の意味は、普通は自分の心身を80%以上稼動させてことに当たろうという意味である。
しかしたとえば。
「ゆったり過ごすことにがんばろう」とは、がんばって心身稼動を3%くらいに押さえつけるということを意味する。人は生きている限り不安や怒りや憤怒や嫉妬や諦観におそわれ続けるものだが、それをがんばって押さえつけて、心穏やかになろうということなのだ。
こうして考えて見ると、余の「がんばろう」は世間とは時に逆に働くこともあるのだと、ようやく悟った。つまり自己を制御して鎮めるためには、ものすごいエネルギーが必要なんだ。たとえば、暴走した原子炉を穏やかに鎮めるには想像を絶する工夫と力を注がねばならぬ、それと同じだ。
ことしもいろいろがんばろうと思う。しかしそのがんばりの基本には、それ相当の工夫とエネルギーをそそぎ心身基底を制御調整しなければならない。経験的に一番手がかかるのが、「ふさぎ」「鬱」「諦観」「投げだし」だな。これらは要するに世間や人生を虚仮と見なすことからくる。もちろん聖徳太子様のような上等な意味での世間みなこれ虚仮、ではなくて、「ああ、つまらぬ。おもろない。くそったれ。気分凹む~どうせな、みんな死ぬのじゃ。なにをやってもな~」と、随分下等な世間みな虚仮説だ。どうせ死んでしまうのだから、何をしてもしょうがない。という、普通の人生虚仮論じゃ。これだけは克服しないと、毎日毎日が禁煙鬱のように暗く重く、立っては居られないほどの荷重、重力に倒れ込む。さらに病的になると、床や道が形を保たなくなり、ぐにゃりと凹み流砂のように流れ、倒れたりして、歩けなくなり、身の置き場も無くなってしまう。こういう状態は若い頃のこととか、一昨年の禁煙鬱の時に、近似的に経験したが、辛いものだ。これを何とか克服しないと動けなくなる。そしてこれを克服、工夫、調整するにはものすごいエネルギーが必要になる。
ああ、方法はある。
脳を酷使して、過去や現在の否定的暗部に引きずられる心という心を斧で切り落とし剝がしていき、純粋脳の核だけをとりだして、全力全速で体験的経験的「希望」「夢」「快楽」「安息」など、プラスの世界観、思考を無理やり脳内に再構築するわけだ。これをするのは鬱期だともうへとへとになるほど、しんどい、辛い、死んでしまいたくなるような過酷な労働を脳にさせることになる。別の意味で起き上がれなくなる。
しかしこれに成功すると、おかしなことに、新たな夢や希望がじわりじわりと湧いてきて、日々が愉しくなる(笑)。
これには常日頃から充実した時の脳内構造を意識しておく。要するに愉しい日々を「覚えておく」。
私論では、幼児期、幼い頃の幸福感、達成感が無意識の奥底に蓄えられていると、強烈な鬱になっても、生きる力をみなぎらせる世界観を再構築しやすい。
ああ。
これだけかいて、今年はなんとなく、今まで以上に心穏やか、充実した時間を過ごせそうだ。
うむ、ふむ。
各位に長年お世話をかけたことが、ようやく、余の精神を安定させて余もそれなりに成熟してきたようである。
皆の衆、ありがとう!
ことしもよろしく。
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コメント
男はつらいよ
正月元旦からいろいろとお考えのご様子。
穏やかな人間の住める環境は地表のほんの薄い層。
内部ではマグマが燃え盛っている。
そういう地球のことを思い出しました。
Mu大兄が日常を一見平穏無事に見えるようにするためのご苦労がこの記事からしのばれます。
当方なども顔で笑って心で泣いてを心がけている、あるいはそうありたいと念願している方やもしれませぬ。
本年もよろしゅうに。
投稿: ふうてん | 2012年1月 2日 (月) 07時46分
ふうてんさん
今日が月曜なので、ふうてん日記を今から読みに行きます。
さて、実は、顔で泣いて心で笑うことも多いのです。
世間とは、あんまり愉しそうにしていると、後ろから突き落とされたりする危険もあると、長年の生で経験しとります。
いつも苦虫つぶして不機嫌な顔をしていると、誰もよってこないし、意地悪もされません(笑)
などと人生を遊びのように過ごせる一瞬は、生の充実を味わいますね。
昨夜、ドラマで「相棒」を見ましたが、ああいうおもしろい脚本というか、流れを味わうと、「なかなか愉しい」と思うことがよくあります。私は笑いながら、楽しんでおりました。笑ったのは、お笑いだからではなくて、「ああ、こういう上手な物語を作る人もおるんだ」という、感動ですな。
ではよい平成24年を。
投稿: Mu→ふうてんさん | 2012年1月 2日 (月) 08時11分
良き新年をお迎えのこととお慶び申し上げます。
世の中はくだらないこと、しょーもないことの連続です。
執着すると、妄執翁になりますよ(笑)
そのくだらないこと、しょーもないことの中に
涙する刹那的なものもあるのが、世のならい。
面白いものです。
お体おいといくださいませ。
投稿: 近江女 | 2012年1月 2日 (月) 18時16分
近江女さん
お説をうかがっておると、昔の「藤山寛美」世界を思い出します。あなたさんは、寛美さんのペーソスをご存じの年齢でしょうか? 実はMuは年齢的には十分に寛美さんをTVなどでみたことのある年代なのですが、近江女さんがごらんになると、どうかなと想像してみました。
さて、妄執翁というイメージは実によいですね。年限を決めて、やってみたい役割です。素足で、破れ衣をきて、近江の葦の中を彷徨い歩き、妄執の目をぎらぎら光らせて、超高価な「フナ寿司がない、どこにもない」と叫びたいです。
正月早々、お笑い妄執翁の一幕を想像するのも、よろしな。
投稿: Mu→近江女さん | 2012年1月 2日 (月) 18時51分
Mu老師さま
藤山寛美は年表上の方ですね。
ただ、奥行きのある芸能だったとお聞きします。
(こう見えても若者なんですよ)
日常とは、欲のパンプスを履き、妄執のスーツを纏い、餓えた顔を隠すお面を被って毎日をこなす連続です。
ほんに、しょーもない(笑)
葵の上のような艶のある妄執も抱いておりますが。
三ヶ日だけの戯れ言です。
明日から、日常に戻らねば。
投稿: 近江女 | 2012年1月 3日 (火) 12時54分
近江女さま
想像するに、貴女はいわゆるビジネスをなさっている方のようですね。
ビジネスされる老若男女にとってはスーツが装甲服で、カバンには判子やカードや携帯などの武器弾薬が詰まっているのだと思います。
しょーもないと時には思いながらも、敵陣地を占領し敵将を射止め、膨大な賠償金を獲得したときの心地よさは忘れられない、まるでパチンコ依存性の様に、つまらぬと思った翌日には、ショールをはためかせ、カツカツと姿勢正しく敵陣地に突撃していくように見うけられました。ときどきの妄執は汗のような涙のような、生きる証。あるいは預金通帳の残高を垣間見る悦楽がこりかたまって、~(笑)
ともかく三が日ももう終わり。明日よりは、また明るく熱烈に、ビジネスに励んでください。
投稿: Mu→近江女さん | 2012年1月 3日 (火) 13時47分