カテゴリー「九州2011」の7件の記事

2011年10月30日 (日)

九州2011夏:福岡篇:志賀島遙拝と金印の謎

承前:九州2011夏:福岡篇:太宰府天満宮の九州国立博物館

0.志賀島
 「しかのしま」には以前からあこがれていた。砂州が天橋立みたいになっていて、沖合の志賀島と陸地とをむすびつけていて、その様子は地図でもはっきり分かる。たとえば文末に付けたGoogle地図の「写真」ボタンを押すと自然の不思議が鮮明に見える。またJR愛称「海の中道線」がこの細長い陸地に通っていて、これは実は香椎線の事なのだ。香椎線と言えば、松本清張の点と線、あるいは日本書紀仲哀天皇・香椎宮(仲哀天皇大本營御舊蹟)とつながり、私にとってはすべてが驚異の世界となる。地元の人が聞けば笑うだろうが、遠隔の京都や宇治から志賀島や海中道を眺めると、すべてがいまだに昭和神話、古代神話世界の物語に思えてくる。

1.志賀海神社

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↑遙拝所

 志賀海神社の事の前に、私が一番心打たれた場所は、亀石のある「遙拝所」だった。なにかしら古神道は遙かな彼方を遠望する雰囲気があって気持ちよい。この遙拝所には神功皇后時代の亀さん神話があるが、それとは別に遙拝先は伊勢神宮と(現代ならば皇居)、対岸の大嶽神社と駒札には記してあった。その由緒来歴はさることながら、実際に鳥居の彼方を眺めていると不思議な気持ちにおそわれてくる。その実感こそが現地を経巡る快感の源なのだ。机上では得られない生の空気感といえるだろう。

 さて志賀海神社(しかうみじんじゃ)だが、御由緒の木札には「古来、玄界灘に臨む交通の要衝として聖域視されていた志賀島に鎮座し、『龍の都』『海神の総本社』と称えられ、海の守護神として篤く信仰されている。」と記されていた。つまり海神(わたつみのかみ)が坐します聖域と思えばよい。この神社には神功皇后にかかわる伝承が多く、対岸東へ直線13kmにある香椎神宮での仲哀天皇・神功皇后の古代伝えと合わせて、このあたりの神功皇后伝承には太い芯を感じさせる。

 人影も無かったが、境内を一巡し遙拝所から海を眺めていると、ここに海の神々が祭られたことが自然に思われてきた。神社は、聖なる地に祀られることが大半で、人為効率によって成されることは比較的すくなかった。余った土地に社(やしろ)を定めるのではなくて、そこが聖地だから社を置き、神々を鎮めたと考えるのが正しい。

志賀海神社01
志賀海神社02:案内板
志賀海神社03
志賀海神社04:石造宝篋印塔案内板
志賀海神社05:石造宝篋印塔
志賀海神社06
志賀海神社07
志賀海神社08
志賀海神社09:志賀海神社略記案内板
志賀海神社10
志賀海神社11:遙拝所
志賀海神社12:亀石案内板
志賀海神社13:亀石
志賀海神社14
志賀海神社15
志賀海神社16

2.しかのしま資料館

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↑ジオラマ 玄界灘/博多湾

 しかのしま資料館(設立母体不明)は島の北端「勝馬」にある。というよりは国民休暇村の付帯施設のように見える。だからこの島を訪れたほとんどの人はこの資料館に立ち寄るだろう。私は記念に、金印のキーホルダーと、「謎とミステリーだらけ:志賀島の金印/岡本顕實」とをここで購入した。勿論この二つは、福岡市なら他でも入手できるだろうが、記念品とはその地で手にした方がよいものだ。

 立地条件としては、玄界灘を一望できる。地図でみると壱岐、対馬が北西にあり、そのまま朝鮮半島に向かっている。風光明媚な国民休暇村の中にあるから、将来に充実した展開が可能となる。また金印が発見された南の金印公園は敷地もせまく、今後金印に関する豊富な解説や関連資料を展示していくには、こちらの「しかのしま資料館」が妥当と思った。

 なお金印現品は福岡市博物館にあり、この資料館には精巧なレプリカが展示してあった。感想は、非常に小さい判子だということだ。国宝金印のイメージは私の脳の中で中学生くらいからずっと肥大し続けた来たようで、少なくとも掌くらいの大きさに思えていたのだが、実際は印判面が縦横2.35mmで、高さもそのくらいのものだ。

 後述の金印公園とは別に、金印がこの資料館近くの「中津宮(なかつぐう)古墳」の竪穴石室(積石塚古墳)に埋められていたのではないかという説も、手にした岡本氏の小冊子には書かれていた。島の北端に位置する遺跡なので、立地としては見晴らしの良い場所で、納得するところがあった。

しかのしま資料館01:休暇村案内板
しかのしま資料館02
しかのしま資料館03:ジオラマ・玄界灘/博多湾
しかのしま資料館04:民具展示
しかのしま資料館05:金印解説展示
しかのしま資料館06:金印届書の案内
しかのしま資料館07:金印レプリカ

3.金印発掘遺跡
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↑金印公園

 「漢委奴国王」金印については発見時からの紆余曲折があって、小才には道筋すらつかめない。そもそも印字内容がよく分からない。私が高校生くらいに笑って考えたのは、漢(という国)が委せた奴隷国王(に下げ渡したしるし)だった。国辱的な解釈だが、中国は3世紀当時すでに三国志時代であり、その前には、伝説の夏、史実的な殷(いん)から封神演義(笑)の周、そして春秋戦国時代を経て、秦の始皇帝、前漢、後漢~と、とてつもなく古代史が豊かな大国だったから、卑弥呼以前は弥生時代とか縄文時代とひとくくりでしかいまだ説明できない我が国と比較して、「奴」などと小馬鹿にされてもしかたないというあきらめがあった。

 そのような大国中国の、後漢の光武帝から下げ渡された純金印がなぜ志賀島に埋もれていたのか? 発見の経緯は私が資料館で入手した岡本氏の小冊子にも詳しく、また以前には書評『「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之』をMuBlogに記したこともあった。

 話を本筋にもどそう。この記事は国宝金印の贋作問題を論じたのではなくて、邪馬台国時代にさかのぼり中国や朝鮮と親交の深かかった博多湾、玄界灘に位置した志賀島の歴史から、現代の風景を見ることにあった。そこで、件の金印が発見されたと思われる位置を現代人が定め、ここに金印公園ができた。

 今金印公園に立って、歴史遺物や遺跡の断域、断代を考えておく。
 金印の断代として、制作年は後漢書によれば後漢の光武帝・建武中元二年(西暦57年)、九州に持ち込まれたのも同じ頃だろう。発見年は江戸時代・天明四年(西暦1784)、つまり江戸では田沼意次が権勢を振るい(失脚の数年前)、長谷川平蔵が火付盗賊改方長官になる数年前のことだ。ついでにフランス革命は1789だから、その数年前の日本の九州の話だと考えれば、世界史的考察となる。
 断域が、上述したように志賀島と言っても、この金印公園あたりと決定しているわけではない。しかし志賀島であることに変わりはないから、この国宝金印の出所、つまりは断域、断代はほぼ確定していると言える。
 しかるに。
 ~
 謎はつきない。

金印発見01
金印発見02
金印発見03:元寇史跡・蒙古塚
金印発見04
金印発見05:蒙古塚案内板
金印発見06
金印発見07:金印公園
金印発見08
金印発見09
金印発見10

4.九州紀行2011夏の終わり

 こうして平成23(2011)年夏の、北九州・博物館/資料館/図書館/文学館の周遊は終わった。旅の実際はこの記事の志賀島から始まったのだが、後から写真や記録を整理して、この志賀島で始まり、そこで終わったという感慨が深い。大部分を同行してくださった古代史のJo氏解説もあって、各地でその歴史を堪能した。特にJo氏が残した海部、安曇族に関する考察は年季が入っている。北九州に限っての感想では、どこもかしこも海に関連する歴史や神話に満ちあふれていると思った。その意味で志賀島が始まりで終わりの終始一貫した2011夏となった。

参考
  金印偽造事件:「漢委奴國王」のまぼろし/三浦佑之(MuBlog)
  志賀島の金印:謎とミステリーだらけ/岡本顕實<郷土歴史シリーズ;2>
  築紫紀行(1) 志賀島を目指す (安曇族のルーツ)~築紫紀行(8)(JoBlog)

地図:志賀島

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2011年10月14日 (金)

九州2011夏:福岡篇:太宰府天満宮の九州国立博物館

承前:九州2011夏:佐賀篇:吉野ヶ里遺跡

1.太宰府天満宮
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↑麒麟:キリン

 太宰府天満宮に早朝に到着し、麒麟像を眺めたとき、『月の影 影の海:十二国記/小野不由美』を思い出した。この長編シリーズでは「麒麟」は一国の宰相を意味し、実に重い役割を持っている。そしてまた魅力的な設定なので、ときどき思い出す。日頃はビール会社のマークでしか眺めないが、こうして間近にみてみると随分荒々しい動物に思える。昨日の授業で、空想動物の分類というテーマが学生から上がっていたが、こういう空想動物にはキメラが多い。麒麟だと、龍と馬との合体かと想像した。で馬は現実だが、龍はまた空想の物だ。歴代中国では龍とは皇帝をさしているから、空想がいつのまにか思想になって現実と虚構の垣根を越えてしまっている。

 天満宮に祀られている神さまは菅原道真(すがはら・みちざね):菅公で、藤原家との政争に敗れ、ここ九州太宰府に左遷されたお方で、歴史上実在した人が神様になっておられる。なぜ太宰府に来ることが左遷なのかは、都を中心にして考えると、都からの距離によって中央政治での権力に強弱が生まれるのだろう。本当は、太宰府は第二の都といわれるほど当時の日本にあっては格式の高い地域だったが、政治の中央ではないから、頂点近くまで上り詰めた菅公が、九州へ行くと言うことは、後のない懲罰人事を受けたことになっている。藤原氏専権のよい事例であった。

 さて、菅公といえば、京都の北野天満宮を親しく思い出す。というのも、高校時代の友人知り合いの多くがこの北野の天神さん地域から来ていたからだ。京福電車(嵐電)でいうと北野白梅町駅が通学路の起点になっていた。天満宮は、太宰府天満宮、北野天満宮、大阪天満宮などを代表として日本各地に沢山天神さんが祀られているが、現代は学問の神様としての性格が強い。往時は、菅公の祟りを鎮める意味が強かったらしい。そんなこともよく知らないままに、北野の天神さんの市に出かけた記憶がある。祖母が毎月25日の天神市を楽しみにしていたから、何度か一緒に行ったのだろう。そして、友人達の家へも遊びに行っていた。~

 だから、九州太宰府天満宮は、まるで、本当に親戚の家を訪ねるような親しみを持っていた。遠隔地だから、今回は三度目のお参りにすぎないが、鮮烈な記憶や、疑似記憶に包まれているので、毎年お参りしているような奇妙な思いにひたって、今年の夏も訪ねた。
 その境内から、十年近く前に開設された九州国立博物館への経路、歩くエスカレータが造られていた。

太宰府天満01
太宰府天満02:御神牛
太宰府天満03:天満宮鳥居
太宰府天満04:太鼓橋
太宰府天満05:重要文化財・志賀社
太宰府天満06:志賀社の由緒
太宰府天満07:楼門
太宰府天満08:本殿
太宰府天満09:本殿
太宰府天満10:キリンとウソ

2.九州国立博物館
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↑一階のエントランスホール

 九州国立博物館について、同行のJo氏は手厳しい評価を参考にあげたJoBlogに残している。で、私はその説に賛同する。しかし理屈で賛同するのと感性で愛着を持つのとは、別のことだと思った。たとえば、天満宮から博物館に至る長大な歩くエスカレーターや建物は、まるで往時の箱物行政の悪弊、バブルの残滓に近く、批判は当たっている。あたっては居るのだが、一方「常にいつも世間から無駄と思われる図書館や博物館に、これだけの資金をかけ、思いを込めている」というプラスの評価を私は持つ。

 本当は、建物を立派にし、芸術家である建築設計者の意図を尽くすほど、後日膨大な水光熱費に税金を投入せざるを得ない実情もよくわかる。しかし、貴重な税金を図書館や博物館に浪費することに、私は国の成熟を味わう。本当に貧しければ、人は米やパンにしか目がむかない。図書館や博物館が順調に開館している間は、その国にとっては「平和」があると考えて良い。
 ~。
 様々な思いにひたった。Jo氏のいう「レプリカが多い」という話も、実情はそうなのだろう。後発の博物館としては、時が必要なのだ。東博や京博や奈良博が秘蔵の国宝を、たとえ九州にゆかりがあるものと云え、九博に管理替えするとは想像も付かない。実情は分からぬが、九博は一人孤独にお宝を集める苦難を背負って誕生したといえるだろう。
 ~。
 などとすべては想像にすぎない。
 想像でないのは、相変わらず撮影禁止が多かったことだ。これこそ、Jo氏とともに憤怒の思いで早々に館をでた原因だった。多くの人は自分の目で見て対象を味わい確認する。私はすでにカメラファインダーを通してでないと対象を把握できない慣性にある。つまり、カメラでみないと物を把握できないのだ。その私にとって、肉眼でしか見ることを許さないという措置は、ばかばかしくて話にならない。国のお宝を国民や訪れる者が記録に残せないというのは、一体どういう了見からなんだ!? カメラ・フラッシュがレプリカを傷めるって? 販売パンフレットの売り上げが落ちるって? 
 あははは。
 ~
 もうよそう。

九博01:麓の入り口
九博02:案内板
九博03:エスカレーター
九博04:歩く歩道
九博05:偉容
九博06:正面入り口
九博07:タクシー乗り場
九博08:人影
九博09:銘板
九博10:ミュージアムショップ
九博11:巨大な吹き抜け
九博12:水城(みずき)造成模型

参考
  JoBlog:築紫紀行(9) 太宰府天満宮
  太宰府天満宮
  JoBlog:築紫紀行(10) 九州国立博物館
  九州国立博物館

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2011年9月27日 (火)

九州2011夏:佐賀篇:吉野ヶ里遺跡

承前:九州2011夏:佐賀篇:佐賀県立図書館の朝

1.吉野ヶ里遺跡・歴史公園
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 この吉野ヶ里遺跡が生きていたのは、紀元前3世紀~紀元後3世紀にまたがる、約600年間ほどの弥生時代で、遺跡対象としたのは、弥生時代の後期後半というから、卑弥呼時代のころのようだ。
 遺跡の公式サイトをみると以前から聞いていた「日本最大級の、環濠集落遺跡」となっていた。環濠(かんごう)とは、ぐるりと取り囲んだ壕(ほり)だから、戦国や江戸時代のお城のように、水に囲まれて外界を遮断し、侵入者を防ぐ構造である。今回気付いたのだが、日本100名城(日本城郭協会)でも吉野ヶ里はお城として選ばれている。

 なお同時代と思われる奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむく・いせき)は、280mの長さがある前方後円墳「箸墓」が巨大な周壕の中にあったことや(MuBlog:箸墓古墳の大規模周濠確認)、あるいは纒向遺跡全体が水・運河の都市だったという推測もあり(MuBlog:水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌)、水で結界を造るのは、単純に外敵を阻止するだけではなく、生活や呪術全般にも関係したのだろう、と思った。

 最近読んでいる図書『俾禰呼(ひみか)/古田武彦、ミネルヴァ.2011年9月』の9章1節では、吉野ヶ里の溝が土器で埋もれていた事例を、当時の中国「呉」滅亡により、侵入危機を解除できたから壕を埋めたという説があって、興味深く思えた。つまり溝を溝のままに深くしておくと新しい「魏王朝」に敵対することになるから、外堀を埋めたという考えである。なにやら大坂城の外堀、内堀の事を思い出してしまった。

 吉野ヶ里は側にJRがあるので、博多や太宰府(九州国立博物館)から行きやすい。
 当日は9月はじめだったが、残暑きびしい晴天日だった。しかし空は青の中の深青だった。その秋空のもと、小一時間歩いて展示館もながめた。

2.祭政一致
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 主祭殿という、非常に大きな建物が復元されていた。高床式で、高床部分を現代風に1階とすると、人々が集まる2階広間には、現実のガイドさんも一人いた。吉野ヶ里遺跡歴史公園としては、この復元主祭殿に重点的なサービスを行っているのだろう。
 中は暗かったが、写真は撮れた。

 中心に王さまらしい人がいて(男性)、その前に着物の色の異なる、いろいろな大人(たいじん)や関係者が列んで、王の話を聞いたり、論議したりしている姿だ。近隣の村長さんも参加して話合いに加わっているのだろう。
 ただし説明では、その上階にいる巫女さんの託宣を待って、その情報を王がただちに関係者全員に知らせる報告会のような意味もあった。

 上階の巫女さんの祭祀復元は、下記写真の3.3後半にある。
 巫女さんのイメージは、側に琴を弾く男性も同席しているので、瞬時に、香椎宮の暗黒で託宣を待つ神功皇后の話(MuBlog: 仲哀天皇大本營御舊蹟)を思い出していた。神功皇后は一時期、卑弥呼に比定されるほどに、大巫女度の高い皇后だったわけだ。

 そういえば。
 桜井の纒向遺跡はJR巻向駅の真北すぐにあり、そこで巨大建物が発掘され、神殿とも想像されていた(MuBlog:纒向宮殿紀行(3) )。さて、はて~。建物の敷地面積は大体分かるが、上階がどうなのかまでは復元できるのだろうか。柱跡の太さで類推出来るようだが、今後が楽しみだ。

3.風景集
3.1 ↓吉野ヶ里入城

吉野ヶ里01
吉野ヶ里02
吉野ヶ里03
吉野ヶ里04
吉野ヶ里05
吉野ヶ里06
吉野ヶ里07:逆茂木の案内
吉野ヶ里08:物見櫓と遍路さん(笑)
吉野ヶ里09:櫓門の説明
吉野ヶ里10:櫓門の復元
吉野ヶ里11:住居への入り口

3.2 ↓南内郭を中心とする、大人(たいじん)の住居空間

住居01:南内郭の説明
住居02:竪穴式住居と見張り台
住居03:望楼からの風景
住居04:母親と娘
住居05:大人の妻の家
住居06:住居内部の再現

3.3 ↓北内郭を中心とする、王宮と祭祀の空間

王宮01
王宮02
王宮03
王宮04
王宮05
王宮06:齋堂
王宮07:齋同も高床式です。
王宮08:主祭殿2階
王宮09:王、首長
王宮10:主祭殿3階の案内
王宮11:主祭殿3階:巫女さん

4.参考
 築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ(JoBlogの連載です)
 吉野ヶ里歴史公園

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2011年9月18日 (日)

九州2011夏:佐賀篇:佐賀県立図書館の朝

承前:九州2011夏:小倉篇:松本清張記念館と文学館

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↑佐賀県立図書館の全景と入り口

 現代の佐賀県は県内を一時間程度で行き来できる地の利がある。京都府や滋賀県、奈良県は南北に長く、これは無理だ。奈良県は、いずれバイパス整備で解消されるだろうが、南北の交通停滞が酷く激しく、奈良県庁に会議のために人が集まるだけですったもんだするようだ。だから、佐賀県が小一時間で全員集合できるのは、珍しい。かといって、吉野ヶ里遺跡を見た後では狭い県とも思えない。

 ディジタル世界が進んでも、生身の人が住み、移動し、住処や移動した先にそれなりの空間・建物が必要なのは当たり前の事だが、えてして人は世相に浮き足立って、図書館のような建物は不要になると考える人も多い。ネットさえあれば情報を得るのは簡単だと思うわけだ。しかし実際に佐賀県立図書館のある堀端に立って巨大な楠木を実感し、図書館前の広い公園をながめないと、図書館があることの値打ちはなかなか分からない。そこで某Jo氏のように郷土資料室にどっかとすわり、遠い祖先の生きた姿を文献資料からつかみ取らないと、本当の情報収集とは言えない。すぐそばのお城の中にJo氏の父方祖母か曾祖母の実家があったとは、聞いて初めて驚いた話だった。

 しかし皮肉にも佐賀県立図書館のおもしろさを知ったのは順逆難しい所だが、ネットサイトの記事中に、『県は一つの大きな図書館(ビッグライブラリー)』なる惹句を見つけたからとも言える。サイトの底部には貴重で大部な資料があった(「図書館先進県づくりのための今後の方策」)。そして、こうやって古びたコンクリートの図書館にたどり着いたとき、私は人間が動き回れることのありがたさを知ったし、さらに遠い昔、昭和38年頃に開設した旧い京都府立総合資料館の二階の閲覧室で旧い雑誌をながめていた自分の姿を思い出していた。京都と佐賀とは離れているが、建物の雰囲気や懐かしさが似通っているのだ。

 今度、県立図書館が施設を建て直すのはいつなのかしらないが、現在の趣を残してもよいと思った。それは堀端の巨大な楠木、広々とした南面前庭、そして威圧感の無い低い階層。二階のバルコニーから庭や城域を見渡せる開放感、……。内部の絡繰り・仕掛けはいまさらそれほど気にならない。電脳まみれ、ロボットまみれになってもそれで良かろう。それらは何度でも更新できる。しかし館としての結構は一旦造るとそうそう増改築はしにくいし、バランスを欠いていく。最初が肝心なのだ。

 と、20年近く前に佐賀医大(現在は佐賀大と統合したようだ)の図書課長S氏に連れられて吉野ヶ里遺跡を案内されて、その遺跡見学の驚きで心がたまげて、県立図書館をみることもなく帰還した、その申し訳にやっとこのたび訪れる事ができた。葉隠れの国、再訪だった。

追伸
 宿泊はJR佐賀駅前のビジネスホテルだった。想像以上に手頃なお値段で、一泊と粥付き朝食バイキングを取った。さらに吉野ヶ里から着いたその夜は、疲れが雲散無償するような鶏肉屋を見つけた。これは、美味しい旅の味だった。JR佐賀駅前の大通りの右側を南一直線に10分ほど歩いた四つ角にあった(笑)。いやはやコースのシメは大きめのツクネに秘伝の甘たれがのっていて、これを串ごと横の黄身に付けていただくものだった。私は中性脂肪を取りすぎてはいけないので、黄身付けは止めた。

再伸
 県立図書館で用を果たしたあと、JR佐賀駅にもどりJo氏と美味い珈琲をいただき、それぞれ逆方向の特急に乗った。私は「かごめ」で博多まで戻ったわけだ。

佐賀県立図01
佐賀県立図02
佐賀県立図03
佐賀県立図04
佐賀県立図05

参考
 佐賀県立図書館
 郷土資料のデジタル化事業について(佐賀県立図書館)

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2011年9月15日 (木)

九州2011夏:小倉篇:松本清張記念館と文学館

承前:九州2011夏:番外篇:JR九州特急「かもめ」や電気機関車EF81

 旅行日三日目の午前中だった。県立佐賀図書館も一通り見て、利用案内などの資料も集められたので、最終日をどうするかで考えた。佐賀図書館に同行した某Jo氏はご自分の調査が残っているので、そのまま武雄の方へ向かい、私は博多経由で小倉まで行くことにした。

 JR佐賀駅から特急かもめを使い、博多から小倉までは新幹線だったので、佐賀駅から一時間ほどで小倉駅頭に立った。目的地は、松本清張記念館と、同館近くの文学館だった。ともに北九州市立施設だが、再訪したり、見ておく値打ちのある生涯学習施設だと考えている。

1.北九州市立・松本清張記念館
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 松本清張記念館(公式ページ)

 この記念館を訪れたのは2006年の8月だった。「北九州の旅:松本清張記念館」に詳細を掲載した。だから今回は全般的なことには触れない。何度も通いたくなる博物館として再掲したわけだ。

 下記の写真で分かるが松本清張さんは相当な資料を収集されていた。中でも書籍・文献以外の古物、遺物に対しても、長い手が届いていたことがよく分かる。清張さんが骨董趣味かどうかは知らないが、骨董店が小説に出てくる作品はあった。『火の路』では奈良の町の骨董店が鮮明に浮かんでくる。先回は気付かなかったが、受付の右側にはご自宅の庭にあった東大寺の古い礎石が見えた。

 ところで、記念館の主客が松本清張という作家である故に、文献資料の扱いは丁寧だと思った。読書室があり、その横の「情報ライブラリィ」では、

  清張全仕事: 全作品、全著作のデータベース・リスト表示・詳細情報・タイトル検索。
  収蔵品一覧: 原稿・地図・書簡・写真・書画・美術品・家具調度品・愛用品。
  清張の書庫: 書庫に収蔵されている全書物のタイトルが一覧できるデータベース。
           書庫、書架別にリスト表示。
  昭和事件簿:『日本の黒い霧』『昭和史発掘』の中でとりあげた事件についての解説。

 ~などがPC端末を使って利用者の手によって扱える。
 また、再現書庫は、先回も今回も穴があくほどながめていた。もちろん一々の書籍、古典籍がどうなのかよりも、書架と書架の間を普段着の清張さんが歩く姿を想像しながら眺めていた。それがご本人だけなのか、書生さんか、秘書さんか、だれかは分からない。しかし、たしかにその書庫の間や書斎を清張さんが歩く姿を見ていた、……。と、博物館の佳さはそういうリアルな再現力にあると思った次第である。

 帰りがけに、館報に該当する気に入った刊行物を数冊買ってほっとした。普段入手しにくいものを手に取ると緊張がとれる。
 私が思ったのは、これからはきっちりと記念館の特別展を把握し、折あれば再訪したいということだ。特に古代史関連の催しには興味が湧く。京都からは離れていても、そこでしか見られないものが確かにあるはずだから。
 記念館を出て、後ろを振り返ると、小倉城の石垣と記念館の石垣とが上手に溶け合っていた。この記念館を見る限り、松本清張という作家は、故郷を喪っていなかった人だと独りごちた。

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2.北九州市立・文学館
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 北九州市立文学館(公式ページ)

 文学館は松本清張記念館からは道を挟んで数分のところにあった。というよりも、(北九州市立)中央図書館とは入り口が背中合わせになっていた。目当ての文学館は巨大なドーム状の建物なので、普通に見える図書館やその他施設とはつながっていて、いわゆる複合施設館なのだろう。
 もとより図書館の方が入りやすかったので、先に図書館を覗いてみた。施設の創建年が佐賀県立図書館よりは新しいと思えた(笑)。しかし閲覧室で読書するつもりはなくて、ざっと見回して簡易レストランを見つけ、さっそく中に入り、熱中症予防の茶水を補給した。中ではお弁当を食べている人や、勉強をしている人、ジュースを飲んでいる人、みんなくつろいでいた。

 文学館は博物館だから入場料が必要だったが、松本清張記念館に入館したときに共通券を購入しておいた。入ってみると、来客はほとんど無かった。写真でわかるようにただただ広大な空間が広がっていた。私はこういう空間こそ、建物としての博物館や図書館にとって、今後重要な意味を持つと考えているが、地元の人達や来館者がどう思うかは知らない。「仕分け人」が見れば、無駄と思うだろうか? 私はそうは思わないが、今の世間の考えで、これを無駄と思う人がでてきても致し方なかろう。本当は、無駄と言えば高級とりの国会議員の数や、TVの無駄番組や、無駄無駄恣意事の多さ、世間は無駄の集合で成り立っている。大好きな新幹線も、10分おきに走っていなくても大丈夫なのだが~と、話がそれてきた。

 要するに、文学館は人が少なくて快適だった。
 私は、こういう施設を持った北九州市の懐の深さを味わった。特に館内の「自分史ギャラリー」などに、現代と近未来の高齢化社会における生涯学習館の可能性を味わった。講演会・講座・イベントもあって、それ用の空間も館内にあった。

 結局私には、北九州市がほこる近代文学者のことはよく分からないが、地元に関係ある旧い文化人のために、このような殿堂をもうけ、市民が参加できる仕組みを作ったのは、良いことだと思っている。鴎外がいて、松本清張が、火野葦平が、林芙美子が~。小倉はそういう土地柄なのだろう。

 寺社仏閣、特に旧い神社や鎮守の森、そして現代の公共施設、お城、県立・市立中央図書館、博物館、公園、……。こういう確かな建物、空間の確保整備こそ、今後の我々の生きるよすがとなる。人は、仮想世界だけでは生きられない。~と思って小倉駅までタクシーを奮発し、よく冷えた「のぞみ」の窓際に席をとり、隣席を京都駅まで一人占めにして、夕方には無事帰還した。
 (のぞみ号は比較的込んでいたから、ずっと一人席は幸運だった。しかし広島、岡山駅に到着するたびに、誰か座るかな? と不安におののいていた。夏は二人がけが暑苦しい)

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2011年9月10日 (土)

九州2011夏:番外篇:JR九州特急「かもめ」や電気機関車EF81

1.九州の鉄道

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↑鳥栖駅でみかけたEF81-403 の貨物(コンテナ)列車

 実際の旅行というのは体力や気力、時間、その他要因で変化するものだ。今回の九州行きで鉄道関係・鉄道図書館関係の当初目的はいつの間にか消えていた。有り体に言えば最後の小倉「松本清張記念館」行きに付随して、「門司港レトロ観光列車 潮風号」を実体験することも十分に考えていたのだが、結局二日目の九州国立博物館を見て歩き、吉野ヶ里遺跡展示館資料をながめて、残暑に体力気力を消耗し、最終日の「門司港まで行ってトロッコに乗るのは無理だ」と決定していた。

 しかし、行く先々でJR九州の鉄道には興味が湧いた。JR九州の特徴は、後述する独特の雰囲気を持った特急にあるのだが、それとは別に古い國鐵時代の雰囲気が、港や炭鉱跡にまだ残っている。松本清張が九州出身で、彼の作品にはさかんに鉄道が出てくるが、その縁もあってか、九州の鉄道をながめると、ついカメラのシャッターを押したくなる。

 巻頭の写真は鳥栖駅でみかけた貨物列車で、先頭の電気機関車にはEF81とマークされていた。この形式は、塗装をしっかり直して整備して、美しい長距離特急をまだ引いているはずだ。寝台特急カシオペアもEF81が引く箇所がある。旅は人の心や目を変えて、この古びたEF81も宝物に思えた。昔風の貨車ではなくてコンテナが後ろに控えていたが、いつのまにか私はしっかりシャッターボタンを押した。

 このあとで、鳥栖駅のミンチかしわ入り蕎麦を昼食にとって、満足した。同行のJo氏も驚いていたが、鳥栖駅ではすべてのホームに立ち食いうどん蕎麦屋があって、客が断らない限り、すべてのうどん・蕎麦にはミンチ鳥を甘辛く煮たそぼろがかかっていた。コップ一杯の水とともに、実に味わい深かった。

 ホームで待つ間、他にハウステンボスと書いた特急にも出くわした。少し汚れてくたびれていた。また往年のリレー特急「つばめ」にも新鳥栖駅近くですれ違った。私とJo氏が鳥栖から実際に乗った普通車は、817系と言って、これもおそらくJR九州の特徴ある車両のはずだ。つり革が円形で、椅子も木製に皮のマットが付いていた。

 吉野ヶ里公園駅は、田園風景のただ中にあった。

JR九州EF81-403
JR九州783ハウステンボス(1)
JR九州783ハウステンボス(2)
JR九州783ハウステンボス(3)
JR九州783ハウステンボス(4)
JR九州787
JR九州817円形つり革
JR九州817座席

2.JR九州・特急の典型:白いソニック:ドーンデザイン
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↑佐賀駅で乗車した、特急かもめ:885系SONIC

 JR九州に乗ってみたいと思ったのは、そもそも以前にソニック特急を見たのが遠因にあった。2001年ころからJR九州では水戸岡さんという人がデザインした一風変わった特急列車が評判になりだした。最初に気になったのは、現代だとソニック883系と呼ばれている車両だった。あるいは、ゆふいんの森・特急にも興味を持った。店で模型をながめたり、図書を買ったりして、その外観や内部の空間処理に目を丸くしていた。

 どう考えても、私の「図書館列車構想」にぴったりの列車たちだった。つまり、みて愉しく乗って愉しい、ついでに読書もはかどるような空間、施設。こういう特急だと、空き地において図書雑誌を並べて、そこに司書が一人いるだけで、近所の子供や大人がどんどん遊びにくるような、未来を幻視できた、~。

 しかし長い間実際に乗る機会はなかった。
 どうしても新幹線でびゅんと往って、ぴゅんと還ってくるのが私の旅行スタイルだったのだ。のんびり列車に乗って景色をながめて読書をするだけの、気持ちのゆとりが無かった。

 今回は、いやがおうにも、JR九州の特急に乗らざるを得ない計画を立てた。博多から太宰府経由の佐賀だと、普通列車で行けるが、最後に佐賀から博多ないし小倉までだと、確実に特急に乗る。そのつもりで事実三日目には「かもめ」に一人で乗った。あっという間に博多に着いた。時速130キロで走る振り子タイプの特急ソニックの実力だった。

 40分間ほどの乗車時間中、15分間は席を立って写真を写していた。「ここに書架、こっちにカウンター、あそこはソファ」と、勝手にソニックの2号車を図書館向きに設計変更しながら、写真をとった。

JR九州885かもめ(1)
JR九州885かもめ(2)2号車配置
JR九州885かもめ(3)
JR九州885かもめ(4)
JR九州885かもめ(5)
JR九州885かもめ(6)自動販売機
JR九州885かもめ(7)トイレ
JR九州885かもめ(8)電話室

 というわけで、今夏の鉄道図書館系はJR九州のごく一部を体験しただけだが、九州は調べてみるとトロッコ列車あり、観光列車有り、そして新幹線もあって、九州全域図書館特急列車が走る日も近いことだろう(笑)。というのも、数年後「九州一周セレブ列車の旅、2年後に運行の構想 JR九州(朝日新聞)」という計画が、2013年頃に動き出すようだ。ただし、九州版オリエント急行は二泊3日で、湯布院あたりの高級旅館込み・20万円くらいかかるので、庶民の夢の図書館列車とは、ちょっと異なる。

参考
 1.JR九州の列車ガイド・特急「かもめ」
 2.KATO 885系「白いソニック」
 3.KATO EF81

関係図書

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2011年9月 9日 (金)

九州2011夏:前口上・博多中洲の夜

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 九州はいつも思うのだが、ヤマトタケルノミコト以来西南の旅の愉しさがある。初めて訪ねたのが高校二年生の修学旅行だった。九州全域、鹿児島まで、実に印象深い旅だった。その後大学卒業の3月に二人の友と一緒に、1000ccのパブリカバンに布団や着替えや諸々を載せて、9号線~鳥取砂丘、出雲、萩、下関、門司、博多、太宰府、長崎、雲仙、熊本、大分、別府、瀬戸内海フェリー~と長旅を続けた。友の一人はその後、某国立大学英文学教授になった。一人は画家というかデザイナーになったはずだ。両名とも息災かどうかはしらぬ。その後、社会人になってからは業務出張で何度か九州各地の大学図書館へ行った。結婚してからも縁あって熊本に行った。その後も、葛野に来てからも行った。よほど九州は肌に合うのだろう。極めつけは、数年前(2005年)の「多視点の統合<半島を出よ/村上龍>感想文(MubLog)」だった。この名著へのオマージュを書いていたとき、私は魏志倭人伝世界を幻視していたのだ、……。

 さて。
 このたび、仕事で九州へ行った。最大の目的地は、太宰府の九州国立博物館だった。それと小倉の松本清張記念館。前者は初見、後者は二度目のことだった。要するに、現代博物館における文献資料へのアプローチについて、見聞を広めることが目的だった。後者に関連して、知人の某Jo氏が自身のルーツ探しに、佐賀県立図書館の郷土資料室を訪ねる予定と知り、旅は道ずれ、途中で合流していくつかの資料館、博物館を回った。

 旅の成果はゆるゆると記事にするとして。今回は前口上(すべて記録したとき、ここを目次にする予定)として、博多の夜の中洲風景を掲載した。カメラは近頃話題のスマホ・auアクオスを使った。一眼レフを首にさげて中洲で夕食を取るほど野暮じゃなし。
 しかし、新宿・歌舞伎町か博多・中洲かといわれるほどの賑わいだったが、川面に映る灯火は、なにやら奴国のかがり火に見えて、夢幻世界にたゆたってしまった。まことに、幻の西南紀行となった。

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