小説木幡記:人生舞台
タイトルを「人生劇場」としたのだが、これほど著名な言葉もないので、それを避けて「人生舞台」にしたが、脳の片隅にはふと「夢芝居」と、なにかの歌の一節が流れていった。
さてMuBlogの充実と日々生活の充実について、メモひとつ残しおかん。
このごろMuBlogの記事が減少し、それにともなってアクセスも急激降下となってきた。記事数や記事内容が外界からわかるMuの血圧や血液検査に等しい生命兆候=生命メータとしてしまうと、これが間違いであるとひと言メモしておきたかったのだ。
たとえば500首近い歌のある大伴家持は因幡の国守をした40代前半を最後にして萬葉集に歌が残って居らず、多賀城の司令官として亡くなった60代後半までの20数年間、「表現」が無くなった。余はこの家持の後半生、晩年を暗い時代と思っておったし、政治世相上は藤原家による名家殺戮の時代だから、武門・大伴氏を率いる家持は本当に辛かったのだろうと思ってきた。
ただ。
今となって余の日常と照合させると、そんな風に言ってしまうとつじつまは合うが、意外な落とし穴にはまってしまう危険も味わった。要するに、人の気持ちはなかなか外から窺いしれぬものであって、う、とか、きゃ、とか言わずとも心は地獄のこともあるし、逆の充実感を味わっているかもしれないという、当たり前のことを再度考え出したのだ。
このごろずっと、MuBlogも書けぬくらいに諸事万端追いまくられて居る。
時と場合、人や年齢によってはそれが不眠症、鬱、胃潰瘍、と心身を壊すくらいにストレス高く、つまらなく、ばかばかしいことが多い。
そういう事例多く、また余も巻き込まれてきりきり舞いする。
その嘆きを記事にする前に、そんな中でも就寝の直前に五分、十分と、好きな小説を読み継いだり、iPad で世間の様子を覗いたり、早朝のトースト・ゆで玉子時間に珈琲を味わい旧式の紙新聞を読むひととき~、そこにたとえようもない充実感、人生の開放感、そういったプラスの気持ちを日々味わって居るわけだ。
そしてまた現在午前三時過ぎ、PCを前に勝手きままに好きな事を書くひとときの快楽に身を任せて居る。ふむ、うむ。かくして人生舞台は回っていく。
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