小説木幡記:超能力やオカルトに鈍くなった近頃
幼児期~少年期、若い頃はこの世界が随分不思議に包まれて、怖い思いをしていた。
こっくりさん、空飛ぶ円盤、狐や狸が化ける、猫化け、怨霊、超能力、オカルト全般、千里眼、スプーン投げ曲げ、……。ありとあらゆる事を相当に信じ込んで怖くて蒼くなっておった。
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「あれっ?」と思って段々信じなくなったのは、たとえば信じていた超能力スプーン曲げ楽屋で、机に押しつけて曲げているのをみて、がっくりした。それと、スプーンを曲げてどうするのだ? と批判的に考え出したとき、目から鱗が落ちた。なぜスプーンであって、レールを持ち上げないのか、走ってくる自動車を曲げて事故を止めないのか~と、そこに思いが至ったとき、そのばかばかしさに唖然とした。
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さて。
信じなくなったのは、生きる経験値があがってきたからもある。京極堂風の「この世に不思議はない」というセリフもあろうが、なによりも、この人生にすこしも摩訶不思議な事や怖い幽霊に出くわさなくなった。怖いのはモンスターじみた生身の人間や、付和雷同する人間集団の行動や、人の恨み辛みであって、そこになんら超常現象も不思議もない。
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余はこれからずっと長い余生を、日本ピラミッドもUFOも宇宙人も怨霊も超能力も無い、居ない世界に生きて住むと思うと、いちめん「つまらないのう」と思い、残り反面は「落ち着いて、よろし」と納得する。
若い内は自分の力の及ばぬ事や未決のことや、見通せない闇か霧の未来の重みに押しつぶされて、社会、世の中や日常が、一挙にひっくり返るような超常現象に活路を見いだしていたのだろう。未熟な上に、生きることが息苦しかったのだろう。
今はまだ未熟で息苦しいが、それでも宇宙人や空中浮遊に助けを求めるほどの未熟さもない。前者は「もし大挙してきたら、また外国語をおぼえなあかん、じゃまくさい」と、後者は「汽車賃が浮いてよいが、瞑想が条件なら、見えぬから行き先間違えてぶつかるなぁ」と、その程度に現実的になった。要するに、つまらん!
さて、これからは謎も不思議もない普通の余生を送るとしよう。
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