小説木幡記:米穀通帳と隠遁者
君は米穀通帳を見たか、と問われれば「見たような、触ったような~」としかこたえられないほどの時がすぎた。しかしこれは20世紀の話だったはず。
今朝、窓から景色を眺めていて、足下に吹き付ける温風に心地よさを味わい、それでも脳は遠い昔のことを想像していた。芭蕉であれ去来であれ、隠岐の島の後鳥羽院さんでも後醍醐さんでも、いやもっと古く都を離れた田舎に一人住まいをしている隠遁者達を思い出して、つらつら考えていた。
百姓、漁師、猟師なら身体が元気な内はなにかと食べる物を作ったり取ってきたりして、生きておっただろう。道道の傀儡師なれば大道芸で小銭を手にしていたことだろう。傀儡宿があってそこに顔を出せば一宿一飯は安価にできる仕組みがあったかもしれない。都の貴族や、田舎大名と、そこに仕えるサラリーマンの生活は、いろいろな情報が残っておって、大体想像が付く。
さて問題は、嵯峨野の奥や、山科の田舎に庵する、食べる物を生産できないインテリ崩れ、知識人崩れはどうやって糊口をしのいでいたのか。もし在世中に小金を貯め込んでいても、当時はひととひととの関わりの中で毎日が過ぎていったろうから、お金があっても山奥で珈琲や肉や米やタマゴをおいそれと調達出来るわけがない。それに自動車もないし、暖房機も石油もない。生活が大変だったろうと思う。
現代は、たとえ勤めていても隠遁者や緘黙症の孤独な人が生きていける。人と関わらなくても給与や年金や生活保護がある限り、近所のコンビニやスーパーに行けば、なにがしかのお札やコインで、生きていくだけの食べ物や下着やオーバーコートや手袋を手にできる。だれも自分でそんなものをつくってはおらぬ。インテリゲンチャも大衆労働者も、お札を握りしめれば実に平等だな~。人間、いくら贅沢しても一時に食べる量は似たようなものだし、服も化粧もマニアックにならなければユニクロや無印良品で小ぎれいにまとめられる。時々は、小さなブランド印で気持ちを鎮めることもあるが、それはそれ、趣味の世界。寒さをしのぎ、胃を暖めるだけならば、ものすごく公平だな。
ところで。
祖母と住んでいた頃は、米穀通帳が確かにあった。祖母や母と夜になると質屋通いをしていた。米櫃の米粒を一粒ずつ集めていた祖母がいた。牛乳やタマゴやバナナは、誕生日の時だけいただいた。冬でも原則は冷たい水で洗顔し、洗い物をしていた。洗濯は井戸水か、別の所に住んでいたときは川で洗っていた。掃除機も洗濯機もクーラーも温風器も無かった。電気はあったなぁ。ガスもなかった~。
それが余の小学校の頃だった。
そしてその世界から電気をとったら、時々の医者を除いたら、江戸時代や室町時代や平安時代に近い世界だったなぁ(笑)。
人とのつながりがあった。魚屋さんは爺さんが自転車にトロ箱を積んで、その中に魚をいれて、道路の端にとめて箱の蓋の上で出刃包丁を使っていた。~野菜は、キュウリ、白菜、なすび程度は全部自宅の畑で祖母が作っていた。肉類は滅多に口にしないが、徒歩20分に公設市場があって、最近そばを通ったら跡地に似たものがあった。薬屋の兄ちゃんがときどき訪ねてきた。小学生の余はその兄ちゃんにフェノールフタレンとかアルコールランプの工業アルコールを注文していた。余より十歳程度年上だったからまだ存命かもしれない。そうそう富山の薬売りも毎年祖母を訪ねてきて話し込んでいった~
そこで。
当時、つまり、芭蕉や後鳥羽院さんの時代。つまり江戸時代やずっと昔の鎌倉時代。ああ、この人達は当時も有名人だから事例に合わないな。無名のインテリ崩れが田舎に庵をたててそこに住んで、米やミソやタマゴや野菜は、一体どうやって入手していたのかな。近所の百姓や猟師や漁師とつきあっていたなら、やはり、人はどんな時代もどんな人も、人と相互につきあって助け合わないと、生きられなかったのだろうな、と感心した。
現代は。
お札やコインがあれば、誰とも話さなくても何週間も生きていける。それがよいのか、わるいのか、余にはわからない。
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