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2011年10月21日 (金)

小説木幡記:小説を読み、書くことについて

↓撮影 副長07 「AngkorWat」曙 2009/09
0909angkorwat028 自分自身が書いてきた、書いている小説と、世の中で話題になったり、多くの人が好んで読んでいる小説とは、違ったところが多いと考えている。
 小説を作る上での技巧が上手でツボをついて、面白いとか面白くないという話も、余に限るならまるで世評と合わずにがっくりしたり、喜んだりしている。
 
 余にとって一番良い小説は、読み終わって数年して思い出して「そうだったのか」とか「そういう風なものか」と感慨にふけることが出来るような作品だ。その点では凡百の作品はほとんど役にたたない。読んだことさえ忘れている事が多い。後者は暇つぶしでしかなかったと反省している。というのも、暇つぶしに活字を読むのは、ものすごい浪費だ。歩いたり旅行した方が身体や心によい。

 これはしかし余の授業でもそうで、昨日学生達が話しているのを側で耳にして、苦笑した。つまり、余の昨年の授業や前期の授業内容をまるで思い出せない、何があったのかも記憶にない、といういささか大問題発言を隣で気軽に話しておった(笑)。

 それには別のオチがあって、「自分達で組み立てた(共同)課題達成授業」のことで心が一杯になって、他のことは全部忘れたという、そういう話の流れだったのだ。余が毎年行う一定の座学・パワポでの講義は随分時間がかかり、講義もまさか寝ながらするわけにいかぬから、労力もかかって居る。他方、学生達の課題達成授業は、余がねころんでいても、日月がたつと、自然に(爆)成果ができあがってきて、余はそれを品定めするだけで良い。気楽な授業なのだ。

 にも関わらず、学生(これは読者と考えるとわかりよい)達は、余のお気楽な授業には血道を上げて終了後の数ヶ月間は夜ごとの悪夢に襲われたり、達成感に酔いしれるのに、余が疲労困憊になるほど労力かけた授業は、まるで頭や心にその内容が残っておらん、と。

 世間によく読まれる小説と、まるで世間の興味を引かない小説というジャンルわけが余の心中にあって、余はその違いを分析したこともある。一般に、世間ではやるものは余の琴線に触れぬものが多い、というのが今の心境なのだ。余はむしろ後者、他に読まれないものに読み浸り、読後も長く余韻に包まれ、折に触れて思い出すことが多い作品がある。その二者が截然(せつぜん)区分できぬことも多いが、一般に流行ものはあまねく人の気持ちを惹くために、それは結局余の血肉になることが極めてすくない。単純な暇つぶしにすぎぬからだ。

 まさか。
 余が小説内容に教訓や実利や情報を求めているわけではない。余がその作者や作品世界で、どれだけおもしろおかしく心を自由に動かせるかの、つまりは未知の好奇心を刺激されて、冒険できるかあるいは冒険したか、それが余にとっての心にのこる良い小説なのだ。だから上手すぎる小説というのも、ひっかかりなく一過的にスムーズに余を通過するだけで、読んだ値打ちがない。

 そしてまたあらためて今朝思った。
 余は余自身にとって最良の小説をかくべきなのだ、と。余が思い出して「そうか、そうなのか」と思えるような作品を書くのが一番よいと思った。

追伸
 中谷孝雄さんという作家が昔いて、余は20代のころに数冊読んだのを今でも鮮明に覚えて居る。おそらく余にとって大切な小説の、ひとつの典型は中谷さんが書いたような作品なのだろう。『招魂の賦』とか『同人』がそれにあてはまる。心にのこる典型的な作品だ。余はこういう感性傾向の作品を書けぬから書かぬ。しかし佳いことは事実だ。

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