小説木幡記:おりおりのこと
毎日がゆったりと過ぎていく。つまり日々猛烈に細かなことが沢山あって、せかせかとすごしているのだが、そういう全体は毎年同じなので、少し目線を高所からにすると、せかせかしている自分の姿も含めて、蟻のように動いている情景が、今年も今日もゆったり見ることができる、という、そういう理屈である。
0.人が亡くなった
北杜夫さんが亡くなった。80歳をすぎていた。
また、昨日卒業生の母親が亡くなった。50歳をすぎていた。
お二人の年齢差は30年ある。ながくに生きても、短く生きても、人生に変わりはない。
余はしばらくしこしこと、日々を楽しみ、生きていく。
死する日まで生きることが大切である。
1.ハンダ付け
小学校高学年ころにハンダごてを手にしてから、長きにわたり触らなかった。この一ヶ月ほど、どうしても使わざるを得ないことが生じて、老眼鏡の二重合わせで視力を確保し、細かな線を狭いところで、お互いにショートしないようにくっつけて居る。
いずれ、DCCもの(digitrax社のBDL168&RX4の組み合わせ記事)で披露していくが、アメリカ流のおおらかさにはほとほと感心しておる。我が国では絶対に商品として商売にならないようなむき出しのパーツが、実に深い味のある設計思想によって造られている、とそういう事実が分かってきたのだ。
2.村上春樹さんのインタビュー
新聞で、村上さんがNYタイムズのインタビューを東京で受けたと書かれていた。どんな場合も、話の信憑性は右にゆれ左にゆれるものだから、そのまま受け取るのは危ないし、まして余の考えでは作家は相手に会わせて話を創作する、相手が求めることについて、上手に(つまり非線形的に)答える仕事と思っているので、本当のところは、ご本人に聞いてもわからぬものだろう。
人の心は浮き草よ(笑)。
さて、こんな引用があった。
「われわれはどのようにして幸せを手に入れるか考えねばならない。それはお金や効率性ではない」
これに関して余のコメントは。
村上春樹さんは効率的なシステムをお嫌いのようだ。しかし、この半世紀以上生きていて感慨深く思うのは、お金と適性なシステムなくしては、現今庶民・今の幸せはえられなかった、ということだ。煩瑣には記さぬ。要するに、適切な衣食住たりてこその人生さ。人の住まいし生きる世界や国や町に、適切なシステムがなければ、どれほど悲惨か。
村上春樹さんは、自身を政治的な人間であるともらしていた。
そうかもしれないし、そのままいくなら、どこかのノーベル賞・人権派作家のようになるのかもしれない。しかし、文學・物語に政治性を入れれば入れるほど容易に書きやすく人を惹きつけるが、それがどれほど物語を薄くし、作家の晩年をやせこけたものにするのかは、~。別に近代文学を読まなくても、現代文学でもありありとわかる。
だから、余はミステリかSFしか、よまん。作家の政治的世迷い事を読むくらいなら、ハンダ付けに専念したほうがリアルなのじゃ。
SF/1Q84の4が待ち遠しいが、さてさて出版されるまで、余が生きておるか。30年以内にはハルキ先生に上梓していただきたい。と、心待ちにしておる。私事ながら、あと30年は生きている予定なのじゃ(爆)
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