小説木幡記:古代近江朝・大津市穴太に宮居した景行、成務、仲哀天皇
滋賀県に古代近江朝の宮
天皇がおられた宮は主に大和を中心に痕跡が残っているが、滋賀県・近江にもある。もちろん近江といえば天智天皇(第38)時代の都が有名だが、 これは西暦667年の大津宮として遺跡も発掘されている。場所は近江神宮の南で、記事も載せた「近江大津宮錦織遺跡」。
ところが、近江神宮より少し北の穴太(あのう)の地に、それよりずっと昔の景行天皇・晩年(12)、成務天皇(13)、仲哀天皇・初期(14)が都していたという歴史が日本書紀にある。
タラシ系天皇
この3方は普通には三輪山の麓に都した崇神天皇(10)にちなんで、三輪王朝の天皇として考えてきたが、景行天皇の晩年に穴太に移り、そして成務天皇はこの地を都とした。その後、成務天皇の甥にあたる仲哀天皇もこの地で即位したと想像できる。なお、仲哀天皇は系譜の上からは日本武尊の皇子である。
この3方は、景行天皇がオオタラシヒコオシロワケ、成務天皇がワカタラシヒコ、仲哀天皇がタラシナカツヒコと呼ばれるので、「タラシ系」という分類がある。ちなみに、10代崇神はミマキイリヒコイニエ、11代垂仁はイクメイリヒコイサチと呼ばれ、「イリ系」と分類できる。もちろん彦(ヒコ)とは、たぶん「よい男」という美称。
だから、この穴穂宮の3方はタラシ系の天皇と考えて良かろう。
そしてなぜタラシ系天皇が、大和の三輪山麓から、近江の穴太に遷都したのか、その事情はよく分からぬが、以前この地に訪れて、昔の滋賀をあれこれ想像した記憶がある。
謎はいよよ深まるばかりである。
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↑穴太(あのう)
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コメント
幻の近江王朝
今年の4月の記事です。http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2011/04/post-b773.html
早く三上山(近江富士)に出かけないといけませんね。
『イリ』とは今でも沖縄では『西』という意味で、イリオモテジマ、イリオモテヤマネコ、と西の意味で使用されている。崇神さんは西から来た人と違いますかね。
タラシといえば、オキナガタラシヒメ(神功皇后)ですね。彼女の父は琵琶湖拠点の海人、母は葛城氏で大陸と交易していた氏族でしょうか。
日本の古代史はヤマトとヤマシロ・近江の長い戦いだったかも知れませんね。
投稿: jo | 2011年9月29日 (木) 11時48分
Joさん
たしかに桜井・三輪山と野洲の三上山とが対応していて、そして
穴太と三上山は東西15キロ、現里程では4里です。
仲哀さんらが香椎まで行かれたのは、事情がわかるけど、景行・成務・仲哀の穴太への都遷りは事情が不明瞭です。日本書紀に書けないような、皇統内紛があったんでしょう。
~
琵琶湖産の神功皇后、息長氏が鍵でしょうか。
などいろいろ考えていると、夜も白々と明けてきます。
この秋も、忙しくなりそうだね!(笑)
投稿: JOさん | 2011年9月30日 (金) 04時23分