小説木幡記:物好きな人達
昨日面白いメールをもらったので、興にのって今朝、MuBlogにまとめることにした。
つまり、世の中にはいろいろなことにおもしろさを見つけ、楽しんでいる人が多いということだ。余の知り合い達のことで考えると、「類は友を呼ぶ」というように、どこかで一本細い糸で余とつながっていて、それが何かを考えるのも、面白いものだ。
1.酒好きの男達が回りにようけおった
これは一般論として男の酒好きが多くて、たまたま余が下戸だから余計に目立つ~という程度のものか。
しかし、亡くなった先輩や、今も生きているはずの旦那達は、異様に酒好きだ。
お金もかかるし、心身にも悪かろうに~
なぜ下戸の余と縁があったのか、謎だな。
2.タバコ好きの男達が回りにようけおった
これも上記1と似通って居る。
お金もかかるし、心身にも悪かろうに~
なぜ禁煙して1年半にもなる余と縁があるのか、謎だな。
3.Apple好きの男達がようけおった
と言っても、これは3人くらいかもしれん。
ちょっと小説のことで知り合いになった方もマック好きだった。
余の人生で、Apple文化にどっぷり浸っていたのは、余をいれて5名くらいかな。
つながる細い糸は、大抵は、変人・頑固なところがあった。
だがスマホ選択で余ひとりは、iPhoneを選ばず、auのアンドロイドをえらんだ。ここが、余の世間との対応のしかただな。余の方が、質実剛健なんじゃ労。(ああ、ワンセグが写らないモバイルなんて、けけけ!)
4.日曜作家の好きな物好きな人達
これは、みまわしても、居らぬな。案外、隠して居るのかもしれぬ。恥ずかしがらなくてもよいのに。
5.鉄道模型ジオラマ好きな物好きな人達
世間には一定量いそうだが、余の知り合いにはほとんどいない。さびしい余生じゃのう。ようするに余の回りに鉄分豊富な人は実に少ない。
6.歴史好きな物好きな人達
思い返してみると、たとえば、一人は古代史すきな御仁がおって。話が良く合う(笑)。
最近は昭和の226や、坂の上の雲や、呉の海軍施設が好きな物好きがいた。びっくりした。これが冒頭にあげたメールの内容だ。
最近は、歴史好きな卒業生達が多く、話の接ぎ穂があってよいことじゃ。
戦国時代~幕末新選組。このあたりにはまり込んだ卒業生が多数おる。
7.小説好きな人達
これは知り合いに多い。結果的に、話すことといえば、MuBlogもそうだが、フィクションの内容解釈や好きじゃとか嫌い邪とかに落ち着く。
8.グルメそのたお金のかかりそうな話題
あんまりおらぬ。
結局、余の知り合いは世間的に質素な生活を送って居るのが大半なのだ。
9.来年のNHK大河ドラマ
来年は平安時代末期、平清盛が主役らしい。「海の国」という小説を以前に読んだが、なんとなく予告をみていると、その内容に近い。
これは物好き達が回りに多数でてきそうだ。また、人と話す機会やMuBlogに書く機会も多くなろう。余の世間との細い細い接点の一つになるじゃろう。
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コメント
この前、このブログに書きこんだ者です。
あの時は、だらだら長たらしい読みにくい文章を書いてすいません。
これからは、長たらしい文章は書かずに、少しづつお話したいと思います。
ところで、Muさんは、日本と言うか、ヤマト王権の建国をどこにとらえていらしゃるんでしょうか?
つまり、どういう事件を持って、ヤマト王権が建国されたと思っているのでしょうか?
記紀なり、中国なりの文献などでいうと、どういう記述がそれに当たるのか?
意見を伺いたいです。
投稿: 匿名太郎 | 2011年9月 5日 (月) 20時26分
匿名太郎さん
今、古典的な上田正昭さんの「石上神宮と七支刀」を読んでいて、朝鮮との関係をもう少し勉強しないと、ヤマト王権・建国がおぼろになってきました。近隣諸国との相対的な視点がないと、建国も亡国も明らかになりませんから。
これまでの考えでは、神武天皇の橿原での即位を建国と考えてきました。つまり、近代国家とは異なり、いろいろな概念(建国とか、王権とか、王さまとか、村とか国とか~)がまだ溶け合った時代ですから、後世の朝廷の歴史家とか大王とか藤原さん一家らが、「これをもって初代の即位としましょう」と言った、そのセリフを「建国」と見なしてきたのです。
逆に、「建国したぞ」と、そう名付けるか、そう名乗るかどうかの問題と、今でも考えております。
しかし。
比較的古い石上神宮の歴史などを考えると、どうころんでも近代以降の国とかいう考えとは合わなくて。
と、いまのところ曖昧模糊としております。
投稿: Mu→匿名太郎さん | 2011年9月 5日 (月) 20時46分
Muさん、ご返信ありがとうございます。
私が思うヤマト王権の建国とは何か?ということですが...記紀を読むとその思想から分かるのですが、ヤマト王権の建国とは、出雲国譲りのことだと思うのです。
では、出雲国譲りとは何なのか?というと、それは、出雲王権からヤマト王権への禅譲された事件なのです。纂奪ではなく、禅譲です。ここが重要です。ヤマト王権は出雲王権から天下の覇権を譲られることによって、倭国の統一を達成できたのだと思います。
そのことが、ヤマト王権の正統性に繋がっていると、記紀では主張しているのです。
また、だからこそ、ヤマト王権は記紀で、出雲の大国主の国造りも詳しく記載しており、また、日本神道では、出雲の神様も大切にするのです。
しかしながら、出雲国譲りは記紀でも意外に曖昧な記述になっています。とくに日本書紀では、神代と人代とを明確に分けて、出雲国譲りを神代の時代と明確に区分しているのです。また、仮に出雲国譲りが実在の時代だとしたら、そこでヤマト王権の初代倭王(天皇)が即位したはずですが、そこんとこが、記紀では、曖昧なのです。
なぜだと思いますか?
投稿: 匿名太郎 | 2011年9月 5日 (月) 22時21分
所用でしばらく席をはずしますが、とりあえず考えをメモします。
☆出雲に大きな国らしき物があったとは想像しますが、それが各地と連立したり、連合の盟主だったり、統一王朝・王権だったとは想像しにくいです。
☆だから、出雲が王権を禅譲したとか、ヤマトが簒奪したというほどの王権が出雲にあって、大規模な儀式や戦争があったとは、なかなか想像しがたいです。
☆もしヤマト王権が出雲国を傘下においても、それまでにヤマト王家には王らしき人や女王らしき人がいただろうから、記紀としては、出雲王権からの移譲をもって、初代大王とするのが難しかったのでは?
☆とはいっても、それ以前は曖昧模糊として、天武時代では記録や記憶も薄いから、とりまとめてあえて「神武天皇即位:いわれひこ」と銘記したのだと、想像しています。
投稿: Mu→匿名太郎さん | 2011年9月 6日 (火) 04時46分
さっそくのご返信、ありがとうございます。
自分も出雲王権が後のヤマト王権のような全国規模の中央集権的な王権だとは思えないです。せいぜい、日本海沿岸部の交易権を支配する勢力がいて、その中心に出雲王権があったぐらいではないでしょうか?まあ、出雲神話みても、政略結婚で出雲を中心に複数の国々が連合していたようには思うのですが...
ただし、後に歴史でもそうであるように、中国地方の政権は、一定の影響力を持った大勢力にはなるみたいです。山名家、大内家、尼子家、毛利家など、全国政権とは言えなくとも、それぞれの時代の最大規模の地方政権にはなれたわけです。山名家は6分の一殿といわれていましたし、大内家も西日本最大の大名で足利家以上の官位を貰っていました。尼子家も日本海沿岸部の交易権をもつ戦国大名の中心的な存在でしたし、毛利家も織田家が勢力を拡大するまでは日本最大規模の石高を誇っていた戦国大名でした。
そして、なによりも、記紀では、わざわざ、出雲国譲りだけは言及してあるのです。他の地域の国譲りには言及されてないのに...なぜでしょうか? たしかに、出雲を征服することによって、近畿王権の全国制覇がほぼ確定した意味も大きいと思います。また、出雲は地理的にみて、中国との対日本海交易圏の倭国側の代表者になりやすい位置にあり、内陸部の近畿王権がそれを奪った意味が大きかったのでしょう。でも、それだけではないと思います。
実は、出雲と近畿王権の間には、婚姻関係があったこと、これが重要なのです。詳しくいうと、出雲の大国主の王女の天道日女命が、近畿王権の天火明命の正室になっていたことです。播磨国風土記によると、出雲国譲りとは、大国主が義理の息子(娘婿)の天火明命(通称:天照国照彦=出雲国譲りによって、天津と国津の両方の支配者になった者)に国を譲った話でもあるのです。このへんの婚姻関係は、旧事本紀、海部氏系図にも記載されていることです。そして、この天火明命と天道日女命の間に生まれたのが、天香語山命であり、彼は近畿と出雲の合一の象徴でもあるのです。そして、この天香語山命の後胤に、尾張氏、海部氏、津守氏などがいます。
一方、現在の皇室は誰の子孫なのでしょうか?
投稿: 匿名太郎 | 2011年9月 6日 (火) 19時32分
匿名さん
全段は理解しやすかったです。
後段の出雲と大和との婚姻関係云々は、先代旧事本紀などに詳しいと、知り合いのJoBlogさんから以前に教示されたことがあります。
皇室についてははばかり多く明言出来ませんが、現代の古代史・通史を見る限り、崇神天皇(半神話)、応神天皇(父系?)、継体天皇(出自?)、天武天皇(出生?)、南北朝時代(世相混乱)の時代のことが、素人には分かりにくく、「先祖」まで話すのは難しいと思っています。ただし、文化的・家系的には入り婿、入れ替わりを含め、スジが通っています。
投稿: mu | 2011年9月 9日 (金) 07時39分
Muさん
古代の王室の血統の継承の真偽については...妃が浮気して子供が出来たり、あるいは、子供を極秘で取り換えたり...仮にそういうことになっても、前近代にはDNA鑑定みたいな技術もなかったわけだし、調べようがありません。
ただし、社会的にみて母系継承だった、あるいは、社会的にみて王朝交代だったのを、記紀の編纂者が万世一系的に偽造したとは思わないし、また、他の有力豪族の目を盗んで偽造できなかったと思います。だから、崇神は神話とは思わないし、応神は仲哀の皇子として即位したし、継体は遠い傍系でも応神5世だったから即位できたし、天武は天智の両親とも同じの弟だったのでしょう。
では、あの記紀や新撰姓氏録の記載が正しかったとしても、現在の皇室にとって、タブーはなかったのでしょうか?いや、それはあったと思います。
ここで、先のコメント欄で書いたことにもつながってきます。
私は、ヤマト王権の建国とは、出雲国譲りが最初で、出雲の大国主が娘婿だった天火明命に国譲りしたのが最初だと言いました。この天火明命は、通称を天照国照彦といい、これは、出雲国譲りして天津と国津の両方の支配者になったことを表しています。実は、元々は、この人物を、ヤマトの始祖・男の太陽神アマテルとして崇拝していたのでは?という説があります。それを、天武天皇が新しく女神アマテラスを創造し、この男の太陽神アマテルの存在を消そうとしたのでは?という説があるのです。
じゃ、なぜ、そのようなことを天武天皇はする必要があったのか?天武天皇ら神武皇統の先祖はニニギ命です。一方、出雲国譲りした天照国照彦は、このニニギ命の兄(弟という説もある)です。出雲国譲りが最初ならば、天照国照彦こそ、ヤマト王権の初代天皇にしても良い人物でしょう。でも、それだと、その弟であるニニギ命の後胤の正統性はどうでしょうか?現在の天皇家はニニギ命の男系子孫であっても、初代倭王(天皇)の天照国照彦の男系子孫ではありません。天照国照彦からスタートすれば、現在の天皇家は万世一系とは言えなくなるのです。
これについては、中世以降の武家政権でも似たようなことが多いです。たとえば、徳川幕府では、松平家一族内でも大きく二つに分かれていました。初代将軍の徳川家康の男系子孫たちは、徳川を名乗ろうが、松平を名乗ろうが、親藩大名です。しかしながら、家康よりも前の代で分かれた松平一族は、譜代大名として扱われます。徳川家康の弟の内藤信成も譜代大名です。
もし、天照国照彦を初代天皇としたら、ニニギ命の子孫である現在の天皇家は、親藩の豪族ではなく、家来筋に当たる譜代の豪族ともいえます。ただし、一応、初代天皇の天照国照彦の弟の子孫ではあるから、全くの別系統とは言えません。この辺が微妙なのです。
投稿: 匿名太郎 | 2011年9月 9日 (金) 23時06分
1.日本では、革命王朝の連続ではなかった
中国と違って、前王朝の墓をひっぺがえしたり、前王朝関係者を皆殺しにするような革命はなくて、常に前王権の禅譲ないし継承という形がある故に、日本では万世一系と考えるのが自然と思います。
2.イワレヒコが橿原で即位する前に、ヤマトにはすでにニギハヤヒさんがいました。この人の子孫が尾張豪族とか、物部氏と聞いています。
3.相続制度ですが、古典モンゴルは末子相続らしく、古代日本では長子が祭祀、次子が世俗のマツリゴトを引き継ぐと聞いています。オスマントルコでは、王の死とともに兄弟王子が王のもとへ競争で戻り、一着が王位継承、他は一生宮殿で飼い殺しだったとか、噂にききます。
要するに、当時の日本の相続方式は、まだまだ未解明と思います。
投稿: | 2011年9月11日 (日) 12時10分