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2011年9月29日 (木)

小説木幡記:古代近江朝・大津市穴太に宮居した景行、成務、仲哀天皇

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↑高穴穂宮旧跡:現・高穴穂神社(たかあなほ)

滋賀県に古代近江朝の宮
 天皇がおられた宮は主に大和を中心に痕跡が残っているが、滋賀県・近江にもある。もちろん近江といえば天智天皇(第38)時代の都が有名だが、 これは西暦667年の大津宮として遺跡も発掘されている。場所は近江神宮の南で、記事も載せた「近江大津宮錦織遺跡」。
 ところが、近江神宮より少し北の穴太(あのう)の地に、それよりずっと昔の景行天皇・晩年(12)、成務天皇(13)、仲哀天皇・初期(14)が都していたという歴史が日本書紀にある。

タラシ系天皇
 この3方は普通には三輪山の麓に都した崇神天皇(10)にちなんで、三輪王朝の天皇として考えてきたが、景行天皇の晩年に穴太に移り、そして成務天皇はこの地を都とした。その後、成務天皇の甥にあたる仲哀天皇もこの地で即位したと想像できる。なお、仲哀天皇は系譜の上からは日本武尊の皇子である。

 この3方は、景行天皇がオオタラシヒコオシロワケ、成務天皇がワカタラシヒコ、仲哀天皇がタラシナカツヒコと呼ばれるので、「タラシ系」という分類がある。ちなみに、10代崇神はミマキイリヒコイニエ、11代垂仁はイクメイリヒコイサチと呼ばれ、「イリ系」と分類できる。もちろん彦(ヒコ)とは、たぶん「よい男」という美称。

 だから、この穴穂宮の3方はタラシ系の天皇と考えて良かろう。
 そしてなぜタラシ系天皇が、大和の三輪山麓から、近江の穴太に遷都したのか、その事情はよく分からぬが、以前この地に訪れて、昔の滋賀をあれこれ想像した記憶がある。
 謎はいよよ深まるばかりである。


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↑穴太(あのう)

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2011年9月28日 (水)

小説木幡記:わがSF

Amuimg_2870 と、タイトルに記したが、余のSF履歴を深く書く気力はない。高校生の頃に小松さんの作品を目にしたが、あのころが我が国SF黎明期だったとおもうと、余もSFやPCやインターネット黎明期の歴史実体験者として、いろいろメモをのこせるな、と思った。

 小松左京、光瀬龍、豊田有恒、眉村卓、ちょっと別系統で半村良。
 小松さんなら、『果てしなき流れの果に』
 光瀬さんなら、『百億の昼と千億の夜』
 豊田さんなら、『モンゴルの残光』
 眉村さんなら、『引き潮のとき』
 そして半村さんなら、やっぱり『妖星伝』かな。

 勿論他に、星新一さん、筒井康隆さん、安部公房さん~外国作家と、SF世界の愛読書は多かったが、この世界では、小松、光瀬、豊田、眉村さんの4つの作品が余の世界観を造ってしまった。半村さんは随分のめり込んだが、あの人の作品にはどうにも池波さん描く風の濃厚な年増女性が多々あらわれて、SFとはちょっと違ったジャンルとはっきり区別しておった、脳(笑)。

 そこで小松さん。
 件の新書には、日本アパッチ族、万博博当時のこと、そして日本沈没の頃のこと。いろいろ詳細に語られていて、いまごろ深く納得する点があった。小松さんは大好きだったが、ときどき文が捻れて錯乱していて、推敲がされていないなぁ、と余も若いながらに心配していたことがある。しかし実情をよく知ってみると、まさしく、てれてれと小説を書いているほどひまじゃなかったんだぁ、と分かった。
 小松さんの世界観は、いまだに素晴らしい。
 そしてまた、小松世界最後の「神さま」ものが完成しなかったのがなにより残念だ。余もいずれ、この世におさらばするとき、一瞬にして宇宙と空間と時間と人間と、そして神を知るのだろう。その日が待ち遠しい。

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2011年9月27日 (火)

九州2011夏:佐賀篇:吉野ヶ里遺跡

承前:九州2011夏:佐賀篇:佐賀県立図書館の朝

1.吉野ヶ里遺跡・歴史公園
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 この吉野ヶ里遺跡が生きていたのは、紀元前3世紀~紀元後3世紀にまたがる、約600年間ほどの弥生時代で、遺跡対象としたのは、弥生時代の後期後半というから、卑弥呼時代のころのようだ。
 遺跡の公式サイトをみると以前から聞いていた「日本最大級の、環濠集落遺跡」となっていた。環濠(かんごう)とは、ぐるりと取り囲んだ壕(ほり)だから、戦国や江戸時代のお城のように、水に囲まれて外界を遮断し、侵入者を防ぐ構造である。今回気付いたのだが、日本100名城(日本城郭協会)でも吉野ヶ里はお城として選ばれている。

 なお同時代と思われる奈良県桜井市の纒向遺跡(まきむく・いせき)は、280mの長さがある前方後円墳「箸墓」が巨大な周壕の中にあったことや(MuBlog:箸墓古墳の大規模周濠確認)、あるいは纒向遺跡全体が水・運河の都市だったという推測もあり(MuBlog:水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌)、水で結界を造るのは、単純に外敵を阻止するだけではなく、生活や呪術全般にも関係したのだろう、と思った。

 最近読んでいる図書『俾禰呼(ひみか)/古田武彦、ミネルヴァ.2011年9月』の9章1節では、吉野ヶ里の溝が土器で埋もれていた事例を、当時の中国「呉」滅亡により、侵入危機を解除できたから壕を埋めたという説があって、興味深く思えた。つまり溝を溝のままに深くしておくと新しい「魏王朝」に敵対することになるから、外堀を埋めたという考えである。なにやら大坂城の外堀、内堀の事を思い出してしまった。

 吉野ヶ里は側にJRがあるので、博多や太宰府(九州国立博物館)から行きやすい。
 当日は9月はじめだったが、残暑きびしい晴天日だった。しかし空は青の中の深青だった。その秋空のもと、小一時間歩いて展示館もながめた。

2.祭政一致
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 主祭殿という、非常に大きな建物が復元されていた。高床式で、高床部分を現代風に1階とすると、人々が集まる2階広間には、現実のガイドさんも一人いた。吉野ヶ里遺跡歴史公園としては、この復元主祭殿に重点的なサービスを行っているのだろう。
 中は暗かったが、写真は撮れた。

 中心に王さまらしい人がいて(男性)、その前に着物の色の異なる、いろいろな大人(たいじん)や関係者が列んで、王の話を聞いたり、論議したりしている姿だ。近隣の村長さんも参加して話合いに加わっているのだろう。
 ただし説明では、その上階にいる巫女さんの託宣を待って、その情報を王がただちに関係者全員に知らせる報告会のような意味もあった。

 上階の巫女さんの祭祀復元は、下記写真の3.3後半にある。
 巫女さんのイメージは、側に琴を弾く男性も同席しているので、瞬時に、香椎宮の暗黒で託宣を待つ神功皇后の話(MuBlog: 仲哀天皇大本營御舊蹟)を思い出していた。神功皇后は一時期、卑弥呼に比定されるほどに、大巫女度の高い皇后だったわけだ。

 そういえば。
 桜井の纒向遺跡はJR巻向駅の真北すぐにあり、そこで巨大建物が発掘され、神殿とも想像されていた(MuBlog:纒向宮殿紀行(3) )。さて、はて~。建物の敷地面積は大体分かるが、上階がどうなのかまでは復元できるのだろうか。柱跡の太さで類推出来るようだが、今後が楽しみだ。

3.風景集
3.1 ↓吉野ヶ里入城

吉野ヶ里01
吉野ヶ里02
吉野ヶ里03
吉野ヶ里04
吉野ヶ里05
吉野ヶ里06
吉野ヶ里07:逆茂木の案内
吉野ヶ里08:物見櫓と遍路さん(笑)
吉野ヶ里09:櫓門の説明
吉野ヶ里10:櫓門の復元
吉野ヶ里11:住居への入り口

3.2 ↓南内郭を中心とする、大人(たいじん)の住居空間

住居01:南内郭の説明
住居02:竪穴式住居と見張り台
住居03:望楼からの風景
住居04:母親と娘
住居05:大人の妻の家
住居06:住居内部の再現

3.3 ↓北内郭を中心とする、王宮と祭祀の空間

王宮01
王宮02
王宮03
王宮04
王宮05
王宮06:齋堂
王宮07:齋同も高床式です。
王宮08:主祭殿2階
王宮09:王、首長
王宮10:主祭殿3階の案内
王宮11:主祭殿3階:巫女さん

4.参考
 築紫紀行(12) 吉野ヶ里遺跡その1 南内郭へ(JoBlogの連載です)
 吉野ヶ里歴史公園

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2011年9月26日 (月)

小説木幡記:いささか世間が狭い

Muimg_2341 みるともなく知り合い旧知のblogをながめると、本当にみなみな活動的な人生よなと、感嘆する。このごろ余痛切に思うのだが、読書するか散歩するか葛野行くか、あるいはDCC動かすか~その程度のことしかblogネタに出来ないのはよほどに浮世離れしているか、取り残されているのか、世間が狭いのか、おもろない人生なのか~と我が身への感嘆相次ぐこと多い。(よう、いままで飽きもせず生きてきよった、……。という感慨)

 ただ。
 日曜の夕方六時からのNHK大河ドラマの後、すぐそのあとの短期ドラマは、なかなか面白い。昨日は10月2(日)から始まる、剣聖・塚原卜傳の予告があって愉しめた。主演男優も言っていたが、神様、神道と剣道というちょっと風変わりな背景設定が面白くなりそうだ。卜傳は鹿島神宮関係神官の出らしい。ドラマには巫女さんや、妖しの諸国武芸者がでてきて、先週で終わったテンペストに等しく、面白くなりそうだ。

 あれ? もしかしたら、中臣鎌足(なかとみのかまたり)も、鹿島神官の出身という噂があるが。神宮といえば伊勢神宮をさすが、そのほか昔は石上神宮(奈良県天理)、鹿島神宮(茨城県)、香取神宮(千葉県)と、そのくらいの神社だけが名乗った特別称号らしい。その中に鹿島さんが入っている。由緒深い神宮なのだろう。

 ということで、旧知たちの幅のひろい世界認識に追いつくことは出来ぬが、近場で時々京都の寺社仏閣のことを考えて見ようと思った次第。昨夜は、近所の御香宮に若干ふれた。日本の宗教関係施設は、神社にしろ寺にしろ、今や日常に溶け込んでいて訪れても気分がよい。なにか妖しく迫ってはこないので、よろしい。そういえば三輪さんは三輪素麺と同じく、よい気分になれる。ああ、そうだ。福岡県の志賀島の神社は実に味わい深く、遙拝所があって、そこに亀石があって~。

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2011年9月25日 (日)

NHK江(37)千姫の婚礼:伏見から当時を偲ぶ

承前:NHK江(36)男の覚悟:覚悟と言っても

 今夜もあまり書くことは出来ませが。
 茶々、初、江の三人が、江(と秀忠)の娘・千姫の、豊臣秀頼との婚礼で、大坂城に集まってよかったです。ドラマではなんと江が大阪(伏見?)でまたしても(笑)女児を産み、この娘さんは姉の京極初の養女となりました。なにやらドラマのような現実です。江は、秀忠の許しを得て、身重でしたが、千姫の輿入れに付き添ってきたわけです。

 書くことはないのですが、おもしろく見ました。
 そして、以前と同じ想いをしたのです。
 要するに、当時の男達はまるでゲームか博打のように戦争をし、組んだり離れたりして、ときどきは質札や証文みたいに娘を他家に嫁がせ、あるいは息子を人質に差し出して、家の安泰を計ったわけです。
 言葉の通り、弱肉強食世界ですから、生殺与奪の権力を持つ敵達の間をすり抜けて行くには、命がけのゲーム、博打を勝ち抜かざるをえません。しかしそこにある程度、主体性があって、なんとなく勝敗はしかたないとあきらめがつくところもあるでしょうね。

 しかし一方、質草扱いされる「女」達は、父や家から勝手に婚家を決められて、知らない間に親と切り離されて、娘が生まれるとまた勝手に道具にされる~。
 なにか、人の都合でいいように扱われるわけです。
 今夜も三姉妹が出会った大坂城の一刻は、見ていて本当に「よかったなぁ」と、思わせるところがありました。勿論、このあとは、徳川と豊臣が最後の覇権争いに突入し、おそらく三姉妹が会うこともなく、茶々(淀君)は大坂城を枕にして、炎上するわけです。妹の江も、初も、辛いことでしょう。

 というわけで、現実の京都や宇治の秋風とともに、ドラマも佳境となり、それぞれが悲しい運命をむかえるのですから、あんまり筆がすすまないというわけです。
 (江は勝ち組ですが、実姉が夫や義父によって滅ぼされるのをみるのは、いい気持ちじゃないと思いますよ)

参考
 伏見城下の大手筋に、今夜紹介された御香宮さんがあって、私の散歩道なのでこれまで記事をいろいろ書いておりました。境内に東照宮(家康)と豊国社(秀吉)がともにあるというのも、不思議な話です。お庭は小堀遠州作庭とかいいますし、お水は伏見名水で、境内には旧伏見城の石垣もごろごろしています。今は近所のあちこちで花笠祭りの準備が進んでいて、秋の夕方になると、何日間も人だかりで一杯になって、自動車も社頭を通れなくなります。
 
 桜のおわり:2009/04/11(土)伏見港・弁財天長建寺桜と御香宮桜
 0501120・ごこうのみや;ごこうぐう:表から見た御香宮
 ごこうのみや;ごこうぐう:裏から見た御香宮


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2011年9月24日 (土)

小説木幡記:歩く人

Aadsc00011 歩くのが好ましくなってきた。これはクセになる趣味だ。いたずらに靴が減り、足腰が過酷な歩行で痛めつけられる危険性、あるいは交通事故に遭遇する可能性もあがるが、ほどほどにすると金銭的にも気分の上からも、心身全体にわたって気持ちが良くなる。ランナーズハイまでは行かぬが、歩いている内に軽く陶然としてくるのは、何故だろう。てこてこ歩くだけで脳内麻薬がわき出るほど、甘くはなかろうに。きっと、「わしゃ、両足でまだ歩けるぞぉ」という雄叫びがフィードバックして一種の自信を生み出すのだろう。

 今日あたりはよい季節だった。出る時の室温が25度cだった。だから気持ち良かったのだろう。
 思い返せば、
 たとえば9月上旬に、吉野ヶ里遺跡を延々と歩いた。ひとえに好奇心からだった。
 たとえば先週は、京阪中書島~丹波橋まで歩いた。途中の伏見桃山で普通電車を待つのが邪魔くさかったからだ。
 たとえば今週初めは三条京阪駅から寺町通りへ行って、そこから南下して四条通りにでて、そこから四条烏丸まで歩いて、阪急電車に乗った。帰路はさすがに阪急河原町まで乗って、そこから北へ三条京阪まで歩いた。

 そしてたとえば今日は、地下鉄烏丸今出川(同志社大学近所)で降りてから、ブライトンホテルまで歩いて、そこで炫火忌に出席し、濃厚な(笑)フレンチ・ディナーをとって、さてそれからがお立ち会い。ホテルから京都府警の前を歩いて、烏丸丸太町まで出て、そこから東へ向かって寺町通りまで行き、そこから南下して御池まで歩き、さらに三条京阪まで歩いた。

 と、いろいろまだルートを開発中なんだ。
 歩くのは自動車に比べて自由度が高まる。自動車の場合、しょっちゅう警察のネズミ取り位置を思い出しながら、時には駐車場を探しながら、時には国道を真っ昼間横断する高齢者の出現に注意しながら、ハンドルを握る。これにくらべて歩くのは、まるで夢遊病みたいだね~自由気ままがよろしい。

 おそらく年末までは京都の街は歩くに楽だ。碁盤の目だから、東山と北山さえ弁別すれば、絶対に行き倒れにならない。必ず思った通りの場所に到着する。ただし、年を越すと2月末までは寒波が激烈だから凍死危険があり、夏の8月は確実に熱中症になる。残り9ヶ月弱が、歩く人の天国、それが京都だな。

 さて明日は日曜日。
 日曜作家の後は、宇治まで歩るこうかいな。これが10キロくらいあるから、ちょっと靴の減りがきつい。やっぱり昼寝にしようか、と迷う所だ。


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2011年9月20日 (火)

小説木幡記:生きている証

Mubigimg_29452 今日は時間を取れたので、葛野の往復に随分歩きを入れて、約一里(4km)ほど歩いたら、気分が良くなった。ついでに、犬も歩けば棒にあたる、そのままのことに出くわした。

 帰路だった。
 阪急を降りて北へ向かって歩いていたら、河原町のど真ん中に、鉄道模型の中古品店が出来ていて、度肝を抜かれた(大げさな表現だが、あり得ない話だからなぁ)。この世界は本当に細々としていて、いままで繁華街の中心地には出て来たことはないはずだ。京都ならせいぜい寺町四条下がるくらいに以前店があったが、今は撤退してない。四条河原町では、鉄道模型店をまだ見たことがなかった、のだ。

 終日、外は雨だった。
 しかし中心街はアーケードがあって、雨にぬれたのは三条京阪駅と三条河原町の間、そしていつもの阪急駅と葛野の大学間だけは往復濡れた。が、その間、傘を差さなかった。なにかしら、めんどうだから多少の雨や雪や日射には帽子だけで歩く事にしている。

 今日は、もっと外で。
 町でうろうろしていたかったが、まだまだ宿題が続くので早めに到着し、ubuntuを立ち上げずにWinマシンだけにして、しこしこまとめ仕事をしていた。ubuntuは、パターンレコグニションの能力を落とさぬために、ついつい上海をやってしまう。マウスの上級仕様だが、最近はずっと3分10秒以下にならないとベストテンにも入らない。いまのところ、メモがないが、たぶん2分40秒代がトップのはずだ。瞬間で画面全体を見渡す能力は相当に上がったはずだ(cat)。

 しかし、なあ。
 還る直前に不意にアップルを触りたくなった。そこで、iPadが側になかったので2008年の黒をopenして、動画を蓄積している500GBの外付けHDを接続させて、旧い旧い動画の整理整頓を始めてしまった。前世紀、20世紀の動画を次々とながめている内に、写っている者達や自分の若さに唖然とした。まるでみんな別人だね(笑)。

 というわけで。
 日々、まだ生きておる脳。今日も夕飯が美味かった。ありがたいことだ。明日は朝から授業が続き、午後はずっと会議。学生はみんな授業好きで、同僚達は会議好きで、そのどちらにも肩入れできない余は多少困って居るのだ。
 
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2011年9月19日 (月)

小説木幡記:月が二つ見えるのは地球では病気だと分かったのだ

Muimg_5252 超・長編SF『砂の惑星』Duneシリーズの世界では、月が二つある。デヴィッド・リンチの映画でもそれは描かれていた。だから、その世界へ行けば、確かに大きな月が二つあるのだろう。勿論、わが太陽系でも火星の月(衛星)は2こ、木星や土星はそれぞれ60以上の衛星が回りをぐるぐるまわっているのだから、空を見上げるとそれこそ「月だらけ」なのだろう。

 となるとまてよ。
 地球の月は一個と昔から決まって居る。人類が生まれぬもっと昔は知らないが、ここ数万年の間は月は一つだ。だから、月が二つもあるような地球の小説は、きっとSFだろうと思っておった。

 ところが。
 最近ようやく知ったのだが、眼科領域の話では「複視」という目の病気があるらしい。これは夜空の月が確実に二つに見えるという、なんとも1Q84的雰囲気の病気らしい。小説だと月が二つ、三つに見える人が出てきても、ちっとも困らないが、現実にそういう人がいると、これはその人にとってはなかなか気苦労が絶えぬことだろう。

 というわけで。
 事実は小説より奇なり。月が二つに見える人は、現代日本に比較的沢山おられると、初めて知った。ふむふむ。
 しかしもしも、小説『1Q84』の最終巻で、「実は主人公は複視でした」なんてなことになると、鼻白むなぁ。

  複視について(藤田眼科)
  複視(メルク・マニュアルズ)

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2011年9月18日 (日)

NHK江(36)男の覚悟:覚悟と言っても

承前:NHK江(35)幻の関ヶ原:歴史の難しさ

 石田三成が捕まって六条河原で斬首されました。
 秀忠が関ヶ原遅参のことで、家康にはすぐに会えず、会見出来たのは大津城について三日目の事でした。
 秀忠が関ヶ原へ出発するまえに、江の女中に手を付けて、懐妊し、男子を産みました。
 それを知った江は「竹千代」と名付けることを、秀忠に止めて欲しいと言いました。

 大坂城では、大野治長(おおのはるなが)が淀君にはじめて目通りしました。
 京極夏彦じゃなかった、高次さんは高野山へ行ったきりで、家康が気にして(京極さんが大津で長時間西軍を手こずらせたから)若狭八万石をお渡しましょうと、初に言いますが、初は「夫の苦しみを思い返せば、八万石くらい当然です」と怒るし~。

 淀君に家康・秀忠が会見したとき、秀忠はそれとなく三成の気持ちを淀君に伝えます。そして豊臣に忠義を尽くすといいますが、父の家康はしらけていました。家康は十分に天下取りすると腹をくくっておりました。

 一晩でこれだけのことがあると、何から話して良いか分かりません。
 また来週にしましょうか。
 (いえ、今夜も面白かったのは事実です)
 (ただ、仲間さんのテンペストが今日で最後だったので、ちょっと気持ちにぶれがしょうじておりました(笑))
 

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九州2011夏:佐賀篇:佐賀県立図書館の朝

承前:九州2011夏:小倉篇:松本清張記念館と文学館

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↑佐賀県立図書館の全景と入り口

 現代の佐賀県は県内を一時間程度で行き来できる地の利がある。京都府や滋賀県、奈良県は南北に長く、これは無理だ。奈良県は、いずれバイパス整備で解消されるだろうが、南北の交通停滞が酷く激しく、奈良県庁に会議のために人が集まるだけですったもんだするようだ。だから、佐賀県が小一時間で全員集合できるのは、珍しい。かといって、吉野ヶ里遺跡を見た後では狭い県とも思えない。

 ディジタル世界が進んでも、生身の人が住み、移動し、住処や移動した先にそれなりの空間・建物が必要なのは当たり前の事だが、えてして人は世相に浮き足立って、図書館のような建物は不要になると考える人も多い。ネットさえあれば情報を得るのは簡単だと思うわけだ。しかし実際に佐賀県立図書館のある堀端に立って巨大な楠木を実感し、図書館前の広い公園をながめないと、図書館があることの値打ちはなかなか分からない。そこで某Jo氏のように郷土資料室にどっかとすわり、遠い祖先の生きた姿を文献資料からつかみ取らないと、本当の情報収集とは言えない。すぐそばのお城の中にJo氏の父方祖母か曾祖母の実家があったとは、聞いて初めて驚いた話だった。

 しかし皮肉にも佐賀県立図書館のおもしろさを知ったのは順逆難しい所だが、ネットサイトの記事中に、『県は一つの大きな図書館(ビッグライブラリー)』なる惹句を見つけたからとも言える。サイトの底部には貴重で大部な資料があった(「図書館先進県づくりのための今後の方策」)。そして、こうやって古びたコンクリートの図書館にたどり着いたとき、私は人間が動き回れることのありがたさを知ったし、さらに遠い昔、昭和38年頃に開設した旧い京都府立総合資料館の二階の閲覧室で旧い雑誌をながめていた自分の姿を思い出していた。京都と佐賀とは離れているが、建物の雰囲気や懐かしさが似通っているのだ。

 今度、県立図書館が施設を建て直すのはいつなのかしらないが、現在の趣を残してもよいと思った。それは堀端の巨大な楠木、広々とした南面前庭、そして威圧感の無い低い階層。二階のバルコニーから庭や城域を見渡せる開放感、……。内部の絡繰り・仕掛けはいまさらそれほど気にならない。電脳まみれ、ロボットまみれになってもそれで良かろう。それらは何度でも更新できる。しかし館としての結構は一旦造るとそうそう増改築はしにくいし、バランスを欠いていく。最初が肝心なのだ。

 と、20年近く前に佐賀医大(現在は佐賀大と統合したようだ)の図書課長S氏に連れられて吉野ヶ里遺跡を案内されて、その遺跡見学の驚きで心がたまげて、県立図書館をみることもなく帰還した、その申し訳にやっとこのたび訪れる事ができた。葉隠れの国、再訪だった。

追伸
 宿泊はJR佐賀駅前のビジネスホテルだった。想像以上に手頃なお値段で、一泊と粥付き朝食バイキングを取った。さらに吉野ヶ里から着いたその夜は、疲れが雲散無償するような鶏肉屋を見つけた。これは、美味しい旅の味だった。JR佐賀駅前の大通りの右側を南一直線に10分ほど歩いた四つ角にあった(笑)。いやはやコースのシメは大きめのツクネに秘伝の甘たれがのっていて、これを串ごと横の黄身に付けていただくものだった。私は中性脂肪を取りすぎてはいけないので、黄身付けは止めた。

再伸
 県立図書館で用を果たしたあと、JR佐賀駅にもどりJo氏と美味い珈琲をいただき、それぞれ逆方向の特急に乗った。私は「かごめ」で博多まで戻ったわけだ。

佐賀県立図01
佐賀県立図02
佐賀県立図03
佐賀県立図04
佐賀県立図05

参考
 佐賀県立図書館
 郷土資料のデジタル化事業について(佐賀県立図書館)

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2011年9月16日 (金)

小説木幡記:疲れたので読書していた

09amudsc_0047 余の若いころには今ほど多様な遊び、暇つぶしが少なく、その上いささか性狷介、さらに持って生まれたじゃまくさがりも災いして、友と野球したり出かけたりすることもなく、当時の楽しみといえば、読書かバイクか映画しかなかった。どれも孤高といえば聞こえはよいが、要するに金無し友無し付き合い無しで、一人遊びばかりしておった。

 いやしかし今にいたるも似たようなものだ。
 とこう、最近は仕事が詰まっていたので、今日の予定を終えたら急にぐったりして、早々に帰宅しベッドでさらにぐったりしていた。落ち着いてきたので、まずやったことは、PCでもなくスマホ遊びでもなく、ジオラマ操作でもなく~、やっぱり読書だった。

 つまりは、活字を読んで空想していると、旅をしているような浮遊感を擬似的に感じられて、気持ちがよくなり心が安定してくるわけだ。半世紀かけて、とてつもなく読書依存性になってしまっている。治る見込みはまずない。となると、最後まで読んでいたいのだが、以前の文庫や図書は活字・フォントが小さくて目が痛くなる。最近の文庫本は随分読みやすくなっておる。

 だからiPadやスマホは字を大きくできるから便利なのだが、重かったり、メールが来たりして邪魔くさい脳。このごろやけに商品宣伝メルが多い。困ったことだ。
 さて、また明日がある。気力を保とう(ariesaries)。

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2011年9月15日 (木)

九州2011夏:小倉篇:松本清張記念館と文学館

承前:九州2011夏:番外篇:JR九州特急「かもめ」や電気機関車EF81

 旅行日三日目の午前中だった。県立佐賀図書館も一通り見て、利用案内などの資料も集められたので、最終日をどうするかで考えた。佐賀図書館に同行した某Jo氏はご自分の調査が残っているので、そのまま武雄の方へ向かい、私は博多経由で小倉まで行くことにした。

 JR佐賀駅から特急かもめを使い、博多から小倉までは新幹線だったので、佐賀駅から一時間ほどで小倉駅頭に立った。目的地は、松本清張記念館と、同館近くの文学館だった。ともに北九州市立施設だが、再訪したり、見ておく値打ちのある生涯学習施設だと考えている。

1.北九州市立・松本清張記念館
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 松本清張記念館(公式ページ)

 この記念館を訪れたのは2006年の8月だった。「北九州の旅:松本清張記念館」に詳細を掲載した。だから今回は全般的なことには触れない。何度も通いたくなる博物館として再掲したわけだ。

 下記の写真で分かるが松本清張さんは相当な資料を収集されていた。中でも書籍・文献以外の古物、遺物に対しても、長い手が届いていたことがよく分かる。清張さんが骨董趣味かどうかは知らないが、骨董店が小説に出てくる作品はあった。『火の路』では奈良の町の骨董店が鮮明に浮かんでくる。先回は気付かなかったが、受付の右側にはご自宅の庭にあった東大寺の古い礎石が見えた。

 ところで、記念館の主客が松本清張という作家である故に、文献資料の扱いは丁寧だと思った。読書室があり、その横の「情報ライブラリィ」では、

  清張全仕事: 全作品、全著作のデータベース・リスト表示・詳細情報・タイトル検索。
  収蔵品一覧: 原稿・地図・書簡・写真・書画・美術品・家具調度品・愛用品。
  清張の書庫: 書庫に収蔵されている全書物のタイトルが一覧できるデータベース。
           書庫、書架別にリスト表示。
  昭和事件簿:『日本の黒い霧』『昭和史発掘』の中でとりあげた事件についての解説。

 ~などがPC端末を使って利用者の手によって扱える。
 また、再現書庫は、先回も今回も穴があくほどながめていた。もちろん一々の書籍、古典籍がどうなのかよりも、書架と書架の間を普段着の清張さんが歩く姿を想像しながら眺めていた。それがご本人だけなのか、書生さんか、秘書さんか、だれかは分からない。しかし、たしかにその書庫の間や書斎を清張さんが歩く姿を見ていた、……。と、博物館の佳さはそういうリアルな再現力にあると思った次第である。

 帰りがけに、館報に該当する気に入った刊行物を数冊買ってほっとした。普段入手しにくいものを手に取ると緊張がとれる。
 私が思ったのは、これからはきっちりと記念館の特別展を把握し、折あれば再訪したいということだ。特に古代史関連の催しには興味が湧く。京都からは離れていても、そこでしか見られないものが確かにあるはずだから。
 記念館を出て、後ろを振り返ると、小倉城の石垣と記念館の石垣とが上手に溶け合っていた。この記念館を見る限り、松本清張という作家は、故郷を喪っていなかった人だと独りごちた。

小倉清張00
小倉清張01
小倉清張02
小倉清張03
小倉清張04
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2.北九州市立・文学館
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 北九州市立文学館(公式ページ)

 文学館は松本清張記念館からは道を挟んで数分のところにあった。というよりも、(北九州市立)中央図書館とは入り口が背中合わせになっていた。目当ての文学館は巨大なドーム状の建物なので、普通に見える図書館やその他施設とはつながっていて、いわゆる複合施設館なのだろう。
 もとより図書館の方が入りやすかったので、先に図書館を覗いてみた。施設の創建年が佐賀県立図書館よりは新しいと思えた(笑)。しかし閲覧室で読書するつもりはなくて、ざっと見回して簡易レストランを見つけ、さっそく中に入り、熱中症予防の茶水を補給した。中ではお弁当を食べている人や、勉強をしている人、ジュースを飲んでいる人、みんなくつろいでいた。

 文学館は博物館だから入場料が必要だったが、松本清張記念館に入館したときに共通券を購入しておいた。入ってみると、来客はほとんど無かった。写真でわかるようにただただ広大な空間が広がっていた。私はこういう空間こそ、建物としての博物館や図書館にとって、今後重要な意味を持つと考えているが、地元の人達や来館者がどう思うかは知らない。「仕分け人」が見れば、無駄と思うだろうか? 私はそうは思わないが、今の世間の考えで、これを無駄と思う人がでてきても致し方なかろう。本当は、無駄と言えば高級とりの国会議員の数や、TVの無駄番組や、無駄無駄恣意事の多さ、世間は無駄の集合で成り立っている。大好きな新幹線も、10分おきに走っていなくても大丈夫なのだが~と、話がそれてきた。

 要するに、文学館は人が少なくて快適だった。
 私は、こういう施設を持った北九州市の懐の深さを味わった。特に館内の「自分史ギャラリー」などに、現代と近未来の高齢化社会における生涯学習館の可能性を味わった。講演会・講座・イベントもあって、それ用の空間も館内にあった。

 結局私には、北九州市がほこる近代文学者のことはよく分からないが、地元に関係ある旧い文化人のために、このような殿堂をもうけ、市民が参加できる仕組みを作ったのは、良いことだと思っている。鴎外がいて、松本清張が、火野葦平が、林芙美子が~。小倉はそういう土地柄なのだろう。

 寺社仏閣、特に旧い神社や鎮守の森、そして現代の公共施設、お城、県立・市立中央図書館、博物館、公園、……。こういう確かな建物、空間の確保整備こそ、今後の我々の生きるよすがとなる。人は、仮想世界だけでは生きられない。~と思って小倉駅までタクシーを奮発し、よく冷えた「のぞみ」の窓際に席をとり、隣席を京都駅まで一人占めにして、夕方には無事帰還した。
 (のぞみ号は比較的込んでいたから、ずっと一人席は幸運だった。しかし広島、岡山駅に到着するたびに、誰か座るかな? と不安におののいていた。夏は二人がけが暑苦しい)

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2011年9月13日 (火)

砂の器/松本清張原作、竹山洋脚本:TVで見た新・砂の器

はじめに
 数日前の土曜と日曜の夜に、ドラマ「砂の器」があって、録画しながら二夜とも堪能した。これは3月11日に放映されるはずだったが、大震災で延びてしまった。ともあれ、無事放映されてよかった。
 原作は、大昔読んだが2月か3月に大きい活字の文庫本を買って、8月に読み終わっていた。原作のよさ、TVの佳さ、それぞれ十分に味わった。

TVドラマの佳さ
 実は、原作への私の評価は超絶ではなくて、だいたいぎりぎりの80点である。カメダ話や方言話、差別のことなど、小説として他に比較しようがないほど良くできているが、ヌーボー・グループとか錯綜する女性関係とか、殺人の音響トリックとか、代議士と一人娘とか、それぞれがクサイ話だと思った。「点と線」とが原作150点ならば、意外にも、「砂の器」は80点。悪くは無いが、うむむ。長く無駄なところが多々あった。
 それに比べて、ドラマの出来は85~点。部分的に原作よりも優れたところがあった。

 優れた点。
 仕方ないが、映像メディアの凄さがある。だから遍路の親子を望遠で撮ったところなど、私は何度も落涙した。これは人間が文章から再現喚起する脳内映像を、越えていた。すばらしい美しさだった。
 原作で「いらない!」と思ったところが綺麗さっぱり消えていた。たとえば、ヌーボー・グループのややこしさ。音響トリックの不自然さ。全体にスリムになって、見通しが良くなった。
 和賀(佐々木さん)という人の目玉の異様さが、映像故に、めりはりきいて心理の綾をうまく表現していた。

TVドラマの至らなさ
 困った点。
 女優(中谷)さんは好感度の高いひとだったが、原作にはない魅力的な女流新聞記者というのが、どうにもその狂言舞わしというか、役割がすっきりしなかった。別にこの役は無くても良かったのでは。
 主演になる吉村(玉木さん)刑事が長髪なので、最後まで落ち着かなかった。また、吉村刑事がかつて浮浪者で、母や妹の死を眼前にして逃げたという設定から、犯人の気持ちがよくわかるという物語構造が、どうにも変だったな。要するに、吉村刑事には鬱鬱とした陰影がなくて、突拍子もなく突っかかったり、表情が現代的すぎて、なじめなかった。

原作から棄てて欲しくなかった点
 ベテランの今西刑事(小林さん)に家庭が見えなかった点。昭和初期のちゃぶ台のある家庭で、お茶漬けを食べながら沈思黙考する刑事の姿が清張さんの佳さだが、それがドラマではきれいさっぱり消えている点。

まとめ
 どの俳優、女優も好感をもてた。特に若手の吉村刑事と、ベテランの今西刑事が時に二手に分かれて別々の捜査をする様子が、うまく出来ていた。そういう意味では繊細なドラマだと思った。
 原作の最大の鍵「差別」が、TVドラマでは「殺人」になっていた。以前のドラマでもそうだったらしい(覚えていない)。こういう点は、極端に庶民やスポンサーの気持ちを重く受けざるを得ないTVドラマの弱点だと思った。遍路親子の本当の、深い深い悲しみや絶望は、今の視聴者には伝わらなかったかもしれない。現状では仕方ないだろう。
 ただ、最後の、絵の裏に書かれた、父親の息子に向けての言葉が胸を突いた。「秀夫、秀夫、秀夫、……。永遠に忘れられぬ旅でした」。これだけでも、このドラマは成功した。
 冥土の清張さんも喜んで居られるだろう。

参考
 点と線/松本清張:TVで観た「新・点と線」
 小説木幡記:2010/11/28(日)TVドラマ「球形の荒野」の感想

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2011年9月11日 (日)

NHK江(35)幻の関ヶ原:歴史の難しさ

承前:NHK江(34)姫の十字架:負い目と誉れ

 昔のことを後からみると、いろいろ講釈たれることができますが、渦中にいたらきっと難しいことが多いでしょう。ずっとおもってきたのですが、もしタイムマシンがあって、主要人物の前におりたって胸襟をひらいて話し合っても、なかなか意志は通じないでしょうね。なぜなら、後世の私が結果を知っていても、当時のキーパーソンや世間はまるっきりその結果を計算に入れていないこともあるし、そもそも博打みたいなもので、先がどうなるかを見通していた人はごくまれなのじゃないでしょうか。当時の人と話し合っても、お互いにケンカになるだけのように思えました。なんとなく徳川家康レベルになるとすべて見越して関ヶ原の戦いに向かったように思えてきますが、そんなにうまくいったとは、実は言えないのじゃなかろうかと、今夜のドラマを見終わって思ったわけです。

 2009年の天地人という大河ドラマを思い出していまになったわけです。ドラマ天地人では、そういう脚本になっていました。事実としては、大阪での三成挙兵を知って家康が大阪に向かって反転するわけですが、ほとんど無傷の上杉が後ろから追いかけていたなら、今夜の家康や幕僚達のように「まんまと策にのって挙兵した石田三成」と、笑っている場合じゃないわけです。

 一緒に関東までついてきた豊臣恩顧の武将たちも、石田三成が憎くても、毛利総大将で大坂城(つまり秀頼や淀君がいた)を基地した西軍に、みなみなが刃向かう可能性は五分五分だったわけです。逆に、家康が危なかった可能性も大いにあります。少し、家康を神格化しすぎではないでしょうか。むしろ、描かれ方としては秀忠の方がリアルに思えました。3万8千の軍を引き連れた中山道経由の秀忠は、真田との戦いで時間を費やし、結局関ヶ原には、東軍勝利と決着ついた二日後にたどり着いたわけです。

 それにつけても大津に城を構える京極高次と初の夫婦は苦衷に陥りました。近畿はすでに西軍に囲まれていましたから、三成に付かねば京極家は亡くなります。かといって、これまでの経緯からすると家康の貫禄や迫力に逆らえるわけがないのです。籠城して、やがて城をあけて高野山に逃れるという策をとったわけですが、こういう板挟みの判断は誰にとっても難しいことだったでしょう。

 今夜は久しぶりに、戦(いくさ)の緊張を強いられました。

参考
 NHK天地人(37)直江状の背景:戦術義と戦略義
 NHK天地人(38)関ヶ原と山形・長谷堂城
 NHK天地人(39)関ヶ原の終戦処理

 大津城跡

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2011年9月10日 (土)

九州2011夏:番外篇:JR九州特急「かもめ」や電気機関車EF81

1.九州の鉄道

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↑鳥栖駅でみかけたEF81-403 の貨物(コンテナ)列車

 実際の旅行というのは体力や気力、時間、その他要因で変化するものだ。今回の九州行きで鉄道関係・鉄道図書館関係の当初目的はいつの間にか消えていた。有り体に言えば最後の小倉「松本清張記念館」行きに付随して、「門司港レトロ観光列車 潮風号」を実体験することも十分に考えていたのだが、結局二日目の九州国立博物館を見て歩き、吉野ヶ里遺跡展示館資料をながめて、残暑に体力気力を消耗し、最終日の「門司港まで行ってトロッコに乗るのは無理だ」と決定していた。

 しかし、行く先々でJR九州の鉄道には興味が湧いた。JR九州の特徴は、後述する独特の雰囲気を持った特急にあるのだが、それとは別に古い國鐵時代の雰囲気が、港や炭鉱跡にまだ残っている。松本清張が九州出身で、彼の作品にはさかんに鉄道が出てくるが、その縁もあってか、九州の鉄道をながめると、ついカメラのシャッターを押したくなる。

 巻頭の写真は鳥栖駅でみかけた貨物列車で、先頭の電気機関車にはEF81とマークされていた。この形式は、塗装をしっかり直して整備して、美しい長距離特急をまだ引いているはずだ。寝台特急カシオペアもEF81が引く箇所がある。旅は人の心や目を変えて、この古びたEF81も宝物に思えた。昔風の貨車ではなくてコンテナが後ろに控えていたが、いつのまにか私はしっかりシャッターボタンを押した。

 このあとで、鳥栖駅のミンチかしわ入り蕎麦を昼食にとって、満足した。同行のJo氏も驚いていたが、鳥栖駅ではすべてのホームに立ち食いうどん蕎麦屋があって、客が断らない限り、すべてのうどん・蕎麦にはミンチ鳥を甘辛く煮たそぼろがかかっていた。コップ一杯の水とともに、実に味わい深かった。

 ホームで待つ間、他にハウステンボスと書いた特急にも出くわした。少し汚れてくたびれていた。また往年のリレー特急「つばめ」にも新鳥栖駅近くですれ違った。私とJo氏が鳥栖から実際に乗った普通車は、817系と言って、これもおそらくJR九州の特徴ある車両のはずだ。つり革が円形で、椅子も木製に皮のマットが付いていた。

 吉野ヶ里公園駅は、田園風景のただ中にあった。

JR九州EF81-403
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JR九州783ハウステンボス(2)
JR九州783ハウステンボス(3)
JR九州783ハウステンボス(4)
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JR九州817円形つり革
JR九州817座席

2.JR九州・特急の典型:白いソニック:ドーンデザイン
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↑佐賀駅で乗車した、特急かもめ:885系SONIC

 JR九州に乗ってみたいと思ったのは、そもそも以前にソニック特急を見たのが遠因にあった。2001年ころからJR九州では水戸岡さんという人がデザインした一風変わった特急列車が評判になりだした。最初に気になったのは、現代だとソニック883系と呼ばれている車両だった。あるいは、ゆふいんの森・特急にも興味を持った。店で模型をながめたり、図書を買ったりして、その外観や内部の空間処理に目を丸くしていた。

 どう考えても、私の「図書館列車構想」にぴったりの列車たちだった。つまり、みて愉しく乗って愉しい、ついでに読書もはかどるような空間、施設。こういう特急だと、空き地において図書雑誌を並べて、そこに司書が一人いるだけで、近所の子供や大人がどんどん遊びにくるような、未来を幻視できた、~。

 しかし長い間実際に乗る機会はなかった。
 どうしても新幹線でびゅんと往って、ぴゅんと還ってくるのが私の旅行スタイルだったのだ。のんびり列車に乗って景色をながめて読書をするだけの、気持ちのゆとりが無かった。

 今回は、いやがおうにも、JR九州の特急に乗らざるを得ない計画を立てた。博多から太宰府経由の佐賀だと、普通列車で行けるが、最後に佐賀から博多ないし小倉までだと、確実に特急に乗る。そのつもりで事実三日目には「かもめ」に一人で乗った。あっという間に博多に着いた。時速130キロで走る振り子タイプの特急ソニックの実力だった。

 40分間ほどの乗車時間中、15分間は席を立って写真を写していた。「ここに書架、こっちにカウンター、あそこはソファ」と、勝手にソニックの2号車を図書館向きに設計変更しながら、写真をとった。

JR九州885かもめ(1)
JR九州885かもめ(2)2号車配置
JR九州885かもめ(3)
JR九州885かもめ(4)
JR九州885かもめ(5)
JR九州885かもめ(6)自動販売機
JR九州885かもめ(7)トイレ
JR九州885かもめ(8)電話室

 というわけで、今夏の鉄道図書館系はJR九州のごく一部を体験しただけだが、九州は調べてみるとトロッコ列車あり、観光列車有り、そして新幹線もあって、九州全域図書館特急列車が走る日も近いことだろう(笑)。というのも、数年後「九州一周セレブ列車の旅、2年後に運行の構想 JR九州(朝日新聞)」という計画が、2013年頃に動き出すようだ。ただし、九州版オリエント急行は二泊3日で、湯布院あたりの高級旅館込み・20万円くらいかかるので、庶民の夢の図書館列車とは、ちょっと異なる。

参考
 1.JR九州の列車ガイド・特急「かもめ」
 2.KATO 885系「白いソニック」
 3.KATO EF81

関係図書

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2011年9月 9日 (金)

九州2011夏:前口上・博多中洲の夜

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 九州はいつも思うのだが、ヤマトタケルノミコト以来西南の旅の愉しさがある。初めて訪ねたのが高校二年生の修学旅行だった。九州全域、鹿児島まで、実に印象深い旅だった。その後大学卒業の3月に二人の友と一緒に、1000ccのパブリカバンに布団や着替えや諸々を載せて、9号線~鳥取砂丘、出雲、萩、下関、門司、博多、太宰府、長崎、雲仙、熊本、大分、別府、瀬戸内海フェリー~と長旅を続けた。友の一人はその後、某国立大学英文学教授になった。一人は画家というかデザイナーになったはずだ。両名とも息災かどうかはしらぬ。その後、社会人になってからは業務出張で何度か九州各地の大学図書館へ行った。結婚してからも縁あって熊本に行った。その後も、葛野に来てからも行った。よほど九州は肌に合うのだろう。極めつけは、数年前(2005年)の「多視点の統合<半島を出よ/村上龍>感想文(MubLog)」だった。この名著へのオマージュを書いていたとき、私は魏志倭人伝世界を幻視していたのだ、……。

 さて。
 このたび、仕事で九州へ行った。最大の目的地は、太宰府の九州国立博物館だった。それと小倉の松本清張記念館。前者は初見、後者は二度目のことだった。要するに、現代博物館における文献資料へのアプローチについて、見聞を広めることが目的だった。後者に関連して、知人の某Jo氏が自身のルーツ探しに、佐賀県立図書館の郷土資料室を訪ねる予定と知り、旅は道ずれ、途中で合流していくつかの資料館、博物館を回った。

 旅の成果はゆるゆると記事にするとして。今回は前口上(すべて記録したとき、ここを目次にする予定)として、博多の夜の中洲風景を掲載した。カメラは近頃話題のスマホ・auアクオスを使った。一眼レフを首にさげて中洲で夕食を取るほど野暮じゃなし。
 しかし、新宿・歌舞伎町か博多・中洲かといわれるほどの賑わいだったが、川面に映る灯火は、なにやら奴国のかがり火に見えて、夢幻世界にたゆたってしまった。まことに、幻の西南紀行となった。

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2011年9月 6日 (火)

小説木幡記:ちょっとMuBlog休憩

08amudsc_0046 数日間MuBlogを休憩する。普通の意味で旅にでる。入院とか入獄とか死出の旅路じゃなくて、新幹線で遠方の地をみてくる。
 日常のルールを時々外さないと息苦しくなるものだ。
 これまでずっと、逆に、ルールを外す方がしんどいことが多かった。しかし、近頃は窒息しそうになって、なにもかも放り投げたくなる衝動に突き動かされて、旅にでる。
 ~
 たかが数日旅にでるだけで、なんとも大げさなことだ。
 それぐらい、日々生きている証のために、木幡と葛野を往復することに余の人生は費やされて居る。そこになんともいえぬ滋味もあるが、細かな責務が積み重なってくると、精神に変調をきたしそうな気分になってきた。
 ~
 毎日MuBlogを読んだり書いたりするのはしんどい。毎日、薬を飲む仕事もしんどいのう。毎日論文を書くのもしんどい。本を読むのもしんどい。字を書くのも飽きた。仕事するのがしんどい。毎日生きるのがしんどい。おおtaurustaurus
 ~
 とまあ、書類と責務とPCを棄てて旅に出よう!
 しかしまだ美味い物をたべたいから、新幹線殺人事件とか、博物館天井落下殺人事件、大図書館書架転倒圧死事件とか、ホテルフロント殺人事件、赤提灯毒殺事件~とか、いろいろな事件に出くわさないように祈ろう。

再見

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2011年9月 5日 (月)

小説木幡記:物好きな人達

Muimg_2803 昨日面白いメールをもらったので、興にのって今朝、MuBlogにまとめることにした。
 つまり、世の中にはいろいろなことにおもしろさを見つけ、楽しんでいる人が多いということだ。余の知り合い達のことで考えると、「類は友を呼ぶ」というように、どこかで一本細い糸で余とつながっていて、それが何かを考えるのも、面白いものだ。

1.酒好きの男達が回りにようけおった
 これは一般論として男の酒好きが多くて、たまたま余が下戸だから余計に目立つ~という程度のものか。
 しかし、亡くなった先輩や、今も生きているはずの旦那達は、異様に酒好きだ。
 お金もかかるし、心身にも悪かろうに~
 なぜ下戸の余と縁があったのか、謎だな。

2.タバコ好きの男達が回りにようけおった
 これも上記1と似通って居る。
 お金もかかるし、心身にも悪かろうに~
 なぜ禁煙して1年半にもなる余と縁があるのか、謎だな。

3.Apple好きの男達がようけおった
 と言っても、これは3人くらいかもしれん。
 ちょっと小説のことで知り合いになった方もマック好きだった。
 余の人生で、Apple文化にどっぷり浸っていたのは、余をいれて5名くらいかな。
 つながる細い糸は、大抵は、変人・頑固なところがあった。
 だがスマホ選択で余ひとりは、iPhoneを選ばず、auのアンドロイドをえらんだ。ここが、余の世間との対応のしかただな。余の方が、質実剛健なんじゃ労。(ああ、ワンセグが写らないモバイルなんて、けけけ!)

4.日曜作家の好きな物好きな人達
 これは、みまわしても、居らぬな。案外、隠して居るのかもしれぬ。恥ずかしがらなくてもよいのに。

5.鉄道模型ジオラマ好きな物好きな人達
 世間には一定量いそうだが、余の知り合いにはほとんどいない。さびしい余生じゃのう。ようするに余の回りに鉄分豊富な人は実に少ない。

6.歴史好きな物好きな人達
 思い返してみると、たとえば、一人は古代史すきな御仁がおって。話が良く合う(笑)。
 最近は昭和の226や、坂の上の雲や、呉の海軍施設が好きな物好きがいた。びっくりした。これが冒頭にあげたメールの内容だ。
 最近は、歴史好きな卒業生達が多く、話の接ぎ穂があってよいことじゃ。
 戦国時代~幕末新選組。このあたりにはまり込んだ卒業生が多数おる。

7.小説好きな人達
 これは知り合いに多い。結果的に、話すことといえば、MuBlogもそうだが、フィクションの内容解釈や好きじゃとか嫌い邪とかに落ち着く。

8.グルメそのたお金のかかりそうな話題
 あんまりおらぬ。
 結局、余の知り合いは世間的に質素な生活を送って居るのが大半なのだ。

9.来年のNHK大河ドラマ
 来年は平安時代末期、平清盛が主役らしい。「海の国」という小説を以前に読んだが、なんとなく予告をみていると、その内容に近い。
 これは物好き達が回りに多数でてきそうだ。また、人と話す機会やMuBlogに書く機会も多くなろう。余の世間との細い細い接点の一つになるじゃろう。

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2011年9月 4日 (日)

NHK江(34)姫の十字架:負い目と誉れ

承前:NHK江(33)徳川の嫁:三成という人

 女性故の辛さを今夜のドラマで味わいました。
 つまり、女性は結婚したとき、一般には嫁ぎ先の「人」になるわけです。それは生家の考えや風習や行動規範を婚家先の意向で、引き剝がされることを意味します。現代だと、可能性が広まって、二人で新たに別所帯・一家を立ち上げて、新たな文化を創っていくことも多いわけですが、当時の状態では、男系に絡みとられるのが普通だったことでしょう。例外的には婿養子の制度があります。

 浅井(あざい)の三姉妹はどうなのでしょう。
 長女茶々は豊臣の子を産むことで、本来なら豊家にどっぷり絡め取られるはずですが、秀吉亡き後、女性として背筋を伸ばしていきます。これは正室おねさんが京都に去った今、淀君は豊家というよりも、母として息子秀頼を守る立場に立ったことを意味します。

 次女初は、京極家に嫁入りしましたが、まだ子供はいなようです。小姑として亭主の姉(もと、秀吉の側室)が居ますが、いまのところドラマ上での軋轢はありません。これは、婚家の亭主そのものが、徳川につくのか石田三成に付くのかの瀬戸際にたたされたのが、焦点です。もし徳川につくと、初は姉淀君との関係が難しくなり、石田三成に亭主がつくと、江との関係が難しくなります。

 江は、これが一番の大問題です。
 亭主の秀忠の言うことを聞かざるを得ない立場ですが、その秀忠がオヤジ家康に絶対に頭が上がらず、ずっと長い間、アパシー状態(病的な呆然自失状態)なので、江のやきもきすること限りなしです。
 その秀忠に、家康は3万余の軍の総大将として、会津の上杉追討を命じます。そして、側近には、「一番手強く厳しい戦とは、息子に任せ引き継がせ、自立をみとどけること」と、漏らします。
 この話は、男性故の辛さです。

 信長の姪たる江は、気弱になった秀忠に母からの形見、信長の天下布武印判を守りに渡します。そこで秀忠は初めて、信長に憧れをいだき、その姪の江と結婚できて嬉しいと言います。これは江にとって、誉れでもあり、逆に重い重い重荷、あるいは信長ほどの姪としてやってこれたのかどうかという「負い目」ともなります。
 嫁いだ先で、徳川の風習や考えに随い、誉れと思う信長の姪である自覚が一歩間違えばものすごい自信喪失にもつながります。これは秀忠が、オヤジの名が上がれば上がるほど引きこもりたくなるのと、同じ心理です。

 ~
 そして今夜のドラマで一番泣けたのは、細川ガラシャ夫人のことでした。
 すでに15歳の息子は大阪から江戸の徳川家に人質として送り込まれています。さらにガラシャ夫人は、亭主の細川忠興が徳川についていくかぎり、留守の大阪で事変が発生すると、どうなるかも分かっていたことでしょう。

 名将明智光秀の娘・玉子として細川に嫁ぎましたが、実父光秀が信長を討ったあと、亭主忠興はオヤジ細川幽斎の意向をうけて、光秀を見殺しにしました。そして謀反人の娘である玉子を京都府北部の寒村へ追放したわけです。玉子としては自分の亭主や義父の意向で、実父を見殺しにした思いが残ったことでしょう。そして今、石田三成が大阪に入城し、毛利を立てて徳川追討の計画を実行するに及び、徳川に付いていった武将の奥さんや子供をすべて大阪城内に引き連れ、人質として構えます。
 ガラシャ夫人(玉子)の死は、そのときのことだったのです。

 もちろん解釈はいろいろあるようです。細川忠興は事変があれば、部下にガラシャ夫人を殺すことを命じた。あるいは今夜のドラマのように、ガラシャ夫人は忠興の気持ちが揺らがぬように、人質になることを避けた~と。
 どちらにしても、明智玉子さん=ガラシャ夫人の生涯は、厳しいものでした。なにかしら、女性である故に、婚家の事情に左右されて、悲劇的な半生と死を迎えた、と今夜のドラマで感じ入った次第です。

 では来週。
 いよいよ、三成さんの退場が近づいてきました。なにやら寂しいです。

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小説木幡記:上質な政治は可能か

07amudsc_0044 政党政治とは、党なのか人なのかと、時々考えるようになった。戦後の長きにわたり自民党(その系列)が国政の舵をとってきて、それが国民からうとまれだしたので、一昨年民主党という政党が選挙に勝利して、日本の進路を決めだした。
 しかしその党によって選ばれた(党代表)首相の二人が、ルーピー(あほ・かす)と言われたり、ペテン師といわれたりで、散々な結果に終わった。
 ~
 余談ながら、この過去のお二人は余と同年代なので、その苦労や努力や我慢と、逆に狡さや、あほさかげん、ペテン師かげん、そういうもろもろのことがよく分かった。その意味で、政治が身近なものになって余の人生も、ものの考え方が多少変わった。長い間、今も、専門家にたいしては一定の尊敬や尊重する心を持っていたが、「政治家」という専門家は、よほどにきをつけないと、とんでもない人がおるなぁ~という感慨だった。
 ~
 さて。
 だいぶ若返った政治家、野田(現・総理大臣)さんが民主党内で選ばれて、議会で多数をえて、その方が天皇陛下から日本國・総理大臣の認証を得た。陛下の認証を得た首相だから、とやかくはもうさぬが、しかし余は一度も野田さんを選んだ覚えはない。一昨年の選挙で、民主党に所属する人達の多数が国会議員に選ばれたので、こういう結果になったわけだ。
 政治は数の勝負(某小沢氏談)らしいから、たとえ民主党が極悪非道の政治家を代表に選んでも、我々日本人はその人を首相と冠する日本政府の掣肘をうけるわけだ。
 ~
 その野田さんだが。人が思うほどには悪印象は持たなかった。ただし野田さんや新内閣への注文はある。

1.党内融和のためにバランスよく大臣を選んだ~というような内輪の論理は公式には言わないで欲しい。
 党内が分裂している~? それで適材適所?
 そんな話は民主党内部の醜聞だと、腹の底まで味わって欲しい。
 余は民主党が仲良くするために選ばれた大臣達に国政を任せることに、3年目の恐怖を味わった。
 そんな意気地では、来年はそれこそ、近隣諸大国の真性属国にされそうな気がする。
 国民・国益よりも省益と考える官僚制度を憎悪してきた民主党なら、国民・国益よりも党益と考えるのは、止めて欲しい。

2.防衛省の新・大臣が「わしゃ、素人じゃ」と言ったそうだが、解任すべきだ。
 素人に国防ができるなら、余が明日からでも防衛大臣になれる。
 優秀きわまる我が国の官僚制度を破壊しかかった政党が、素人に防衛や外交を任せるとは、まるで発狂した考えではないか。ド素人の大臣、大臣政務官や副大臣がよってたかって電卓やソロバンつかって、維持できるほどの防衛なのか、外務なのか、国政なのか。
 まるでガキの子供王国がまだ続くのかと思うと、げっそりした。
 そうそう、最近の映画でみた。

 警察庁という「庁」だからこそ、玄人の警察庁長官が全国警察組織をきっちり束ねているが、もしも省に昇格させて警察省となると、無知蒙昧ペテン師ぞろいの政治家が警察省大臣になり、日本國の治安は地に落ちる。
 と、ひるがえって、
 そういうお話が、防衛省では着々と進んで居るのかな?
 怖い国だよ、わが祖国。

結論
 というわけで、今後の日本や、あるいは次の総選挙は野田さんの、それこそ世界に向けたバランス感覚によって変わっていく。内輪のバランスは「あんたの勝手です」。
 松下政経塾という、現代の松下村塾出身らしいが、そういう経験を国政に正しく反映されたし。
 A級戦犯問題や靖国神社公式参拝問題だが、余にもいろいろ考えがある。またいずれ、そのことにも触れる。民主党代表という掣肘は野田さんもお持ちなのだから、いずれじっくりとMuBlogで相談しましょう(爆cat)。

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2011年9月 3日 (土)

小説木幡記:世の中のこと

Amudsc_0050 あと一時間で台風12号が四国に上陸するらしい。時速20kmで北北西に進路をとっているとのこと。ところが、時々北海道で豪雨、という話も挟まって聞こえてくる。離れていても、連動している様子だ。天気情報を扱うのは大変なことだと思った。

 野田という方が昨日皇居で認証を得て首相になった。内閣の顔ぶれは昨日午前に決まったようだ。
 各大臣が、いろいろな役職を兼務されているのを知って、兼務できるほど軽い仕事なら無くても良かろうとか、兼務せざるを得ないほど人材が払底しておるのか~と、思った。

 宇治市や京都市の今日の天気は暴風雨になっておるので、うろうろせぬことにした。傘は役立たず、自動車も冠水したり、水が溢れた側溝にタイヤを落とす危険がある。

 晴耕雨読という言葉がある。
 今日は雨だから、読書をしよう。
 最近は『神器』を愉しく読んでおる。しかし虚実が薄皮一枚でひっついておるので、ときどき酩酊状態になる不思議な小説だ。軽巡洋艦橿原、とそんな船があったのかい? と思って調べるとどうも本当に航海していたらしい~と思ったら、進水前に建造中止という記事もあった。小説では、一旦中止になったが、当時の情勢で再度建造された~とのこと。この方の作品で、以前『グランド・ミステリー』を読んだ時も、酩酊感に襲われた~というよりも、三半規管に変調を来すような作風だな。
 ふむ。まだ文庫上巻だが、引き込まれる。

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2011年9月 2日 (金)

小説木幡記:昨日今日明日

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1.昨日は市内某所で同業他社の寄り合い
 終日市内中心部の大学にいた。建物が重要文化財らしく、上等な景観だった。京阪七条からタクシーで西へしばらく、640円。京都駅からは徒歩15分と聞いたが、数日来の足腰不良で、楽な方にした。
 会場では、なにやかやと旧知に出会った。どれほど長きにわたり引きこもり症治療をしていても、知り合いはできるものだ(笑)。引きこもりが数十年単位ともなると、おもてだった恨みはうけていないせいか、和気藹々、笑顔ばかりでよかった。

 発表など、かわされる話の内容はほとんど理解できた。まだまだ脳は動いているようだ。しかし時々わけのわからない発言に「おや?」とおもって、回りの顔色をうかがうと、げっそりした顔つきを散見した。これは、余の反応が正しいようだ。「あのひと、やっぱり~」と余も衆に陰和する。

 発表者や発言者の声音を聞いていて思ったが、「声」は大切だと痛感した。本人も話していたのだが、α波を含んだ声は穏やかな気分にしてくれるそうだ。たしかに二人いたが、随分癒された脳。
 余自身は、こういう人前ではできるだけ発声しないようにしてきた。しかしまれにある「悪寒のする声」だと、これはこれで他の気を惹きつけて、発表時なんかはよいことだろう(笑)。

2.今日はまた宿題達
 台風前だが葛野であれこれ宿題達をかたずける。
 手や脳の遅さもあって、一気呵成に仕上げることは不可能なのだ。だから毎日少しずつこなしておる。
 ところで、JMRIやDigitraxのことはスマホで原盤をながめているとよい考えも浮かんでくるものだ。それが宿題達とどういう関係を持つかに付いてだが、余の意に反して生じたり、あるいはなりゆきで、あるいは付き合いで義理と人情で生じた宿題達は、これは一種のストレスである。

 ストレスは捨て置くと胃潰瘍とか他の精神疾患をもたらし、悪くすると若死にする。もう若死にの季節ではないが、しかしまだ天命とか、老衰とか、天寿全うとは言えぬ。だから、ストレスを軽減するための工夫が必要だ。

 今の余にとっては、世界中の人達が、コンピュータ制御による鉄道模型やロボットをどうこなしているのかを知るのが余生の楽しみだな。ふむ。だから、JmriDigitraxのサイトを眺めるのがマズイ漫画よりもおもろい。
 そうそう、この夏は、まだ漫画を20冊程度しか読んでおらぬ。その分、文庫小説を読んだなぁ。

3.明日は台風と旅行計画
 台風12号がすぎたころ旅行予定だ。
 博物館や資料館で図書、文献資料をどんなふうに運用しているかを見てくる。一番わかりやすい事例は、たとえば博物館では物自体、遺物自体、時には遺跡自体が0次の情報源である。これに関するオリジナルな調査や分析文献資料が1次資料だ。論文とか報告書だな。それらをひっくるめたものが2次資料で、パンフレットなんかはそう考えても良い。実際にはレファレンスブックなどを2次資料という。その上に3次資料があるわけだが~

 さて、お立ち会いの皆の衆(笑)
 従来、博物館は0次情報資料源を扱う機関だった。図書館は1次情報資料以上の高次情報を扱う機関となる。
 しかし~
 そう、このしかしが問題だ。
 余は、博物館や資料館でもちゃんと図書室があるのを知って居る。しかし、なにかしら付録扱いも多い。
 そうじゃないのだ。
 情報資源全体のために、博物館や図書館があるのだよ、……。

ではまた

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2011年9月 1日 (木)

小説木幡記:九月になれば

Amudsc_0028 余の性癖か人の性癖か、分からぬ処だが、常に今このときの現実を通りこして、「夏休みが来れば」「給料日になれば」「秋になれば」「正月になれば」「来年こそは」と、決着の先延ばしとか逃げを未来に置いてしまう。本当は春休みまで待たずとも、今このときを愉しめるのだが。給料日や年金支給日が来なくても、我慢は我慢、衝動は衝動ですませてきたのだが。

 ということで今朝は一日(注:昔のクセで、ツイタチとは呼ばず、イッピとつぶやく)、九月になった。といえば初秋、晩夏、残暑、台風の季節といえる。小中高校までは、たしか学校が始まる月で、大学生の頃には「まだまだ~」と、ゆとりがあった。お堅い仕事(笑)についていたころは、「そろそろ、夏期休暇を消化しないと」と、思う月だった。
 で、現在は?
 ありとあらゆる校務宿題責務を「夏休みになれば」と、つけ回したせいか、肝心の夏休みあけは、締め切りだらけになって、あとしばらくで宿題提出日が連続してくる。
 と、そんな話を続けていても、おもしろく無い。

☆アンドロイド・auスマートフォーン
 最近漸くスマホを触りだした。これまでは他の細かな事が多すぎて、自分の手元のスマホですらまるで他人の電話機のような、疎外感を持って居った。
 で今の感想は、au携帯とは随分異なるものだと気付いた。auスマホ(アクオス)は、つまりは、携帯コンピュータそのものなのだ。
 PCに電話機能が付いたものだ。
 きっかけは、夏期論文執筆の第2の山場をすぎてほっとしたことと、その前に思うところあって、8GbほどのマイクロSDや、アクオス外殻を入手したこと。前者はワンセグや動画保存用に、後者は人もすなるスマホケースを、余も試したかったわけだ。
 このきっかけ物をさわっているまに、漸く、アンドロイド・アプリ百選なんかのムックを買って、読み出したら止まらなくなった。いやはや、もうWindows7も真っ青になりそうなアプリが無料でがんがん使えるようになっておる。余の中、ものすごい変化じゃ。
 余もようやく世間に溶け込みだしたようじゃ(笑)。
 ところで、アンドロイドOSが、じつはLinux上で動いて居るって、しっとるけぇ~。

☆DCC:ディジタル・コマンド・コントロール
 鉄道模型の電子制御をずっと考えてきたが、「図書館列車物語」を自由自在に紡ぎ出すほどの列車自動運行・人工知能制御の成果はまだない。
 この世界は随分マイナーだと思った。
 その中でも、比較的満足している現実はいくつかある。

 1.葛野では2003年頃の古いiMacに、数年前の中古程度のMacOSXを載せて、最新のJMRI(v2.12)を載せて触って居る。この一昔前のiMacが実に役だって居るところに、余の自足がある。

 2.KATOのHO用レールはいろいろ不満もあるが、それでも半径43センチを使いこなして重宝しておる。で、このことでポイントのDCC化に最良の方式を得た。要するに、半径49センチ用の手動ポイント(左右)に、KATOのDCCポイントマシンを付けるのが、一番わかりやすく、工作も楽だと気付いた。リード線を2本、ネジ止めするだけで完了。ハンダもニッパーもなにもいらない、手も汚れない。どうしてこういう気楽な方法をKATOやDCC愛好家はもっと宣伝しないのだろうか(邪笑:いまや、DCCを気楽にあつかうことは、マニアの沽券にかかわることなのか)

 3.動力車両のDCC化は、以前も書いたが、HOタイプ車両が一番気楽だ。KATOの出す動力車はたいてい、8ピン・デコーダなら、差し込むだけで完了。で、バックマンの廉価な動力車はDCC付きだが、これだとなにもしなくても制御できる。というか、車両アドレスだけは変更した方が良いが(通常は3)、このアドレス変更がKATOのDCC基本セットでは出来ない(パラメタ変更での、十進か16進の問題)。これは、永末さんのDP1&DPXであっけなく変更できる(笑)。

 4.というわけで、JMRI画面上に、4車両くらいのスロットルGUIを同時に表示し、ついでに転轍機(ポイントだな)表をみながら、古代iMacのマウスを操作すれば、一人で数両の動力車やポイントを自由自在に扱える。これは快楽だ!

 5.課題。車両センサーとして、BDL168&RX4を入手したが、ワイヤーだらけのお化けになりそうなので、まだ執行を躊躇しておる。電子工作の得意な人のネット記事をながめると、この大量のワイヤーを実に上手に処理しているのでほれぼれするが、余がやると完全なスパゲッティ状態になりそうだ。そういえばPC自作の最後の難関は、ワイヤー処理だった。そうそう、ロボットも大量のサーボモータ結線をどうするかが問題じゃった。電線問題は根が深い。

☆読書、古代史、その他
 もう、疲れたのでまた後日。

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