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2011年8月18日 (木)

小説木幡記:古代史の謎

01amudsc_0031 現総理(菅氏)が元・市民運動家と言われたり、自称していたようだが、それはおそらくかつて市民運動家ではなくて、市民煽動家だったのだろう、という想念が今朝渦巻いていた。しかし余は政治評論家でも、社会評論家でもないし、世間との結び付きもゆるくなってきた身なので、どうでもよいという諦めの心が胸に迫ってきたので、考えることをやめた。
 現総理といえども辞めればただの政治家ないし爺さんだし、隣国の大統領や、クーデターが年に数回もある諸国に比べれば、引退後の生活はゆるゆると気楽なものだろう。訴追も投獄も暗殺にも遭わない。だから、もう忘れよう。この2年間の日本は天人災(注:天神ではない)じゃね。

 さて。
 長く疑問に思ってきて、それぞれに一応の解を余の中で消化してきたつもりだが、それでも本当は疑念が渦巻き、これでは早死にできぬなぁという、根源的な問いというか、疑問がある。古代史問題じゃね。

1.倭国の首都邪馬台国はどこにあった。そして女王・卑弥呼は実在したのか、あるいはどこに埋葬されたのか?
 一々論証せぬが、一応は、邪馬台国は奈良県桜井市のJR巻向駅あたり、いわゆる纒向遺跡だった。卑弥呼は実在し、墓所は280mの前方後円墳箸墓古墳である。このあたりは、公理。

2.邪馬台国と記紀に描かれた大和王権、つまり天皇家とはどういう関係にあったのか。連続するのか断絶があるのか?
 卑弥呼という女王を中心にすると、卑弥呼を共立し、卑弥呼の死とともに倭国は再度分裂した。その後壹与が再度共立されたが、おそらく血縁はなかっただろう。卑弥呼の孫弟子みたいな巫女さんと想像する。そしてまた壹与も没し、そのあとは別の王が近畿の諸豪族から立てられたと思う。それが崇神天皇と想像する。
 だから、倭国首都・邪馬台国連立政権と、大和王権とは、同一国内での政権交代だと想像した。よって、万世一系という象徴視点からみると、まるで無縁だが、同一国内の同一地域の政権交代という視点からみると、つながっておる。

3.九州から東遷した神武天皇と卑弥呼と崇神天皇と橿原地域との関係
 いや、じつに難しい。
 余はこの記紀神話と天皇紀と卑弥呼と橿原神宮のことを考えると夜も眠れなくなる。要するに、どうすれば理屈が通るのか、よくわからぬ(笑)。
 一番の早道は、余が宗旨替えして、戦後すぐの進歩学者、史的唯物論学者に変身して、「すべては権力者が都合のよいように、過去を造った」といえば、気楽で良い脳。現代なら、「すべては天武朝のおやとい中国人やインテリ達が、日曜作家になって、過去を書いたのでしょう」と、言いたくなる。

 いやしかし、一番の謎は、すべては権力御用達インテリ達が造ったにしては、まるで、つじつまが合わない。当時のインテリ達は、現代の官僚や御用学者ほどには、勉強が足りなかったのかもしれぬ。

*.謎が解けたら生き甲斐がなくなる
 以上の謎謎が考古学や歴史学によって、きっちり解けたら、なんだか長生きする値打ちが薄まる。そのときは、また別の謎に挑戦すれば、良いのかのう。「宇宙人が建国した日本」とかな

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小説木幡記」カテゴリの記事

コメント

Muの旦那さん

 4週間北海道で過ごし、明日早朝の便で横浜に戻ります。涼しい夏でした。ところで、邪馬台国。最近、琉球の聞こえ大君と琉球王の関係と同じような社会体制が卑弥呼の時代の列島の社会体制だったのではないかと思うようになりました。天武さんの時代になるとそのような南方系の社会体制は理解できないようになっていたんと違いますか。4世紀の頃に中国も、朝鮮半島も、日本列島も大変動があり武力主義の王権が成立したかもしれない。

投稿: jo | 2011年8月18日 (木) 15時14分

Joさん
 Muはこの頃日曜日の夜に、仲間さんのテンペストを見ておるのです。あそこには王様の姉さんがきこえ大君で、弟の王様が首里天加那志(発音では、しゅりてんかなし、と聞こえますが、ネットで見ると「すいてんがなし」になっておりますね)と、上手に分業しておられます。

 要するに神の声を聞く姉と、政治を行う弟という図式ですね。こりゃ、おっしゃるように、卑弥呼と男弟の関係ですなぁ。

 沖縄には、武断という印象がないです。なにか、儀式と踊り(と歌)とですべてが進んでいくような印象がドラマにはありました。
 ともあれ、南の様式がもしかしたら、邪馬台国に色濃かったのでしょう。

 ふうむ~。

投稿: Mu→Jo | 2011年8月18日 (木) 18時42分

はじめまして。

古代史の謎ですか...でも、箸墓古墳が卑弥呼の墓ならば、
古代史の謎の全体像は、だいたい見えてきたような気がするんですが...

箸墓が卑弥呼の墓ならば、卑弥呼とは日本書紀に登場する
ヤマトトトヒモモソ媛命の可能性が高いでしょう。
だとしたら、はじめて、魏志倭人伝などの中国文献と
記紀などの日本文献の間に整合性が取れ始めると思います。

ここまでいくと、天皇家の系図に登場する人物たちの謎も
解けてきたように思います。
魏志倭人伝に登場する人物たちの正体も
ある程度、分かってきたように思います。
むろん、神武東征の謎や、それより前の出雲国譲りの謎まで。
これらのことから、皇室にとって、何が都合の悪い事実だったのかということまで。

全部、一気に読めてきました。

投稿: 匿名太郎 | 2011年8月19日 (金) 21時33分

太郎さんとやら、お初に~
 さて、公理を公理と認めれば、まるで1000ピースのジグソーパズルがしゃかしゃかとはまっていき完成するように、日本古代史が解けるわけですね?

 そういう専門書(と、これはないか)とか、啓蒙書、トンデモ図書雑誌、TV番組(ようつべ)、伝奇小説などがあれば、もうひと言ご教示ください。

 このごろ、自分の頭で考えるのが面倒なんです(笑)。

「全部、一気に読めてきました。」そこのところが知りたいのです!!

投稿: Mu→匿名太郎さん | 2011年8月20日 (土) 07時32分

おお、返信ありがとうございます。


>専門書(と、これはないか)とか、
>啓蒙書、トンデモ図書雑誌、
>TV番組(ようつべ)、伝奇小説などがあれば、
>もうひと言ご教示ください。

そうですね...「古代海部氏の系図(著)金久与市」なんて、どうでしょうかね...この本は、けっこう真面目な本ですよ。著者が自分の推測などを断定的には主張していないです。ただ「国宝海部氏系図」について、「記紀」や「旧事本紀」などと見比べながら、淡々と「こんなこと書いてるわ」って著者が指摘していくような流れなんですが、でも、勘の鋭い人が読めば、なんとなしに古代の謎が読めますよ。凄い参考になる書籍です。

あとは、「日本書紀」「古事記」「風土記」「延喜式」「魏書」などの文献を原文で正確に読んでいけば、大まかな古代史の謎が解けますよ。

当然、書店でよく売られているような、トンデモ系の歴史読み物など読まないほうが良いです(笑)


>さて、公理を公理と認めれば、
>まるで1000ピースのジグソーパズルが
>しゃかしゃかとはまっていき完成するように、
>日本古代史が解けるわけですね?

そこまで言われると、困りますね(笑)
うん...ただ、なんとなしに日本の建国の流れというか、全体像みたいなもんは、だいたい読めてきたというか...
ヤマト王権がどのように誕生して、どのようなことが起り、それが、どのようにして、卑弥呼から天武天皇の時代まで繋がっているのか、大まかな流れというのが読めてきただけです。ここで私が天武天皇までといったのは重要で、これは深い意味があります。なぜなら、天武天皇というのは、ヤマト王権建国からの長い間の因縁にひとまずケリをつけた人物だからです。


天皇系の系図についてですが、自分が思うに、わざわざ架空の人物とか、次から次へと創作するなど無理だと思います。朝敵とされた蘇我氏ですら、その出自は皇別氏族とされ、勝者だった中臣氏などが天神氏族とされたよりも、よほど高貴な家系として記されています。けっこう、正直なんだと思います。よって、明確な改竄などやっていないと思いますね。

ただし、誰が天皇(というか、倭王)の地位にあったのかについては、皇室や豪族たちによって解釈が分かれていて、皇室側は自分たちが正しいと思うものを、歴代の天皇としてカウントしたんでしょうね。こういうことは、中世以降だって珍しくありません。たとえば、南北朝時代の歴代天皇については、北朝側からみれば、自分たちの一族を歴代天皇としてカウントし、南朝の天皇たちは、ただの親王として長い間、認定してきた。また、外国人から見た場合の例としては、江戸時代、スペイン人は本国に、徳川家康を日本国皇帝と紹介し、徳川秀忠を日本国皇太子として紹介した。江戸時代の文献が日本に存在してなかったら、天皇家の系図とこのスペインの文献との間に整合性とれなくて、大混乱していたでしょう。

よって、天皇家の系図に登場する歴代天皇についても、後世の天皇家にとっては、歴代天皇(倭王)だと思っていても、他の豪族からしたら、それは違うだろうと思っていたのかもしれない。


とまあ、長くなりすぎたので、とりあえず、ここまでに。また、返信お願いします。


投稿: 匿名太郎 | 2011年8月20日 (土) 10時18分

太郎さん(爺さんか、中年か、若いのか、あるいは性別不明)
 ネット仮想情報は示唆にもとみますが、このコメントが、まるで宇宙人からだったら後で困ります。

 さて卑弥呼さんがいわゆる初期天皇の娘さんだった、やまとととびももそ媛に比定されるとして、そこから二代か三代あとの別の天皇さんの娘さんが壹与か台与さんとして、その台与さんに婿入りしたのが北九州に降り立った騎馬民族の崇神天皇さん~と思ったら、またしても応神さんが河内に降り立って~それが神武東遷に投影されたと。

 そういうややこしいことを一切合切記紀にまとめてケリを付けたのが天武さんで。
(ところで天武天皇の存在がおかしいと、某トンデモ本にはありました。天智さんは大化の改新にでてくるのに、弟はそのころどこにおった、ひょっとして百済? あはは)

 太郎さんのコメントをいただいて早速『古代海部氏の系図/金久与市、昭和53年の初版』を押し入れから探して、その「はしがき」と四:崇神から応神までと海部氏、七:海部氏系図にみる卑弥呼、この三章分を速読しましたら、上述のような断片しか頭に入らず、我が年齢を深く味わいました。単語を見ても、うまく頭に整理されて格納されないのです~

 系図のある籠(この)神社は数回訪れました。元伊勢関係で興味があったのです。今から30年以上も前に、「古代海部氏の系図」を入手したのも、そのためと覚えております。

 私の脳では、全理解するのに、まだまだ日ぐれて道が遠いと思いました。

そうそう。
 太郎さんの言葉で、「勝手に天皇(大王)と数えた」というのは、目から鱗ですな。勝手もあるだろうし、記録メディアがほとんど無かった時代の、口承主体だと、私のように思い込みの強い人間が関与すると、「火の皇子」と聞いても、勝手に「はあ? 日の巫女さん、そうでっか」と答えて、弟子には日巫女と教えるかもしれませんなぁ。

さて。
纒向遺跡はいまごろ、どうなっておるのでしょう~

投稿: Mu→匿名太郎さん | 2011年8月20日 (土) 18時49分

Muさん、ご返信、ありがとうございます。

ところで、muさんは、「古代史の謎」というこの記事をエントリーされましたが、なにか古代史に関するニュースでもあったから、この記事をか書かれたのですか?

>さて卑弥呼さんがいわゆる初期天皇の娘さんだった、
>やまとととびももそ媛に比定されるとして、
>そこから二代か三代あとの別の天皇さんの娘さんが
>壹与か台与さんとして、
>その台与さんに婿入りしたのが北九州に降り立った
>騎馬民族の崇神天皇さん~と思ったら、
>またしても応神さんが河内に降り立って~
>それが神武東遷に投影されたと。

これに関しては、記紀などの文献を素直に読めばわかります。そんなこと一つも書いていませんね。

記紀に書いてあることは、実年代は別として、大方は正しくて時系列もほぼ同じとみてよいと私は思います。何かの話を投影させたとか、そんなことはないように思います。

記紀の実年代に関しては、古代の暦の数え方が違っていたのでしょう。魏志倭人伝よんだら、倭人は四季を知らない、春耕秋収で1年と計算していると出ているくらいですから。だから、記紀には高齢の人物が最初のほうで多く出てくるのでしょう。また、記紀を編纂した時代には、大雑把な初期の天皇の寿命と干支没年の伝承しか残されてなかったのでしょうね。古事記なんて、そんな感じです。ただし、日本書紀の場合、中国との外交で相手方に提出しないといけないから、無理して年代を割り出そうとしたのでしょう。

とにかく、多くの方が屈折して解釈しすぎですね。崇神天皇が騎馬民族?そんなこと、どこにも書いてないですし、崇神天皇が北九州から来たとも一つも書いてないです。だから、素直に読みましょう。神武天皇は、崇神天皇や応神天皇よりも前の人物ですね。

天皇家の発祥地は近畿地方ですし、もっと厳密にいえば、葛城地方にある高天の原の周辺の豪族からスタートしたのでしょう。このへんは、また詳しく後で書きますね。

では、素直に読むと、記紀などを総合して読むと、ヤマトトトヒモモソ媛命=卑弥呼だとしたら、彼女は、ミマキイリ彦(崇神天皇)の父方の大叔母にあたります。また、トヨとは、ミマキイリ彦(崇神天皇)の皇女にあたります。よって、魏志倭人伝にもあるとおり、トヨは、卑弥呼の宗女(一族の女性)だというわけです。記紀と魏志倭人伝は繋がった。

ちなみに、わたしは、卑弥呼が死の直前に戦った狗奴国王・卑弥弓呼と、その副官の拘右智卑狗について、ほぼ何者か分かります。許乃国の国主だった武埴安彦命と、その外戚の河内彦のことでしょう。

イワレ彦(神武天皇)は、ヤマトトトヒモモソ媛命(卑弥呼)の7代前、ミマキイリ彦(崇神天皇)の9代前の先祖です。このへんも、記紀などにある通りです。


>太郎さんの言葉で、「勝手に天皇(大王)と数えた」というのは、目から鱗ですな。

勝手に数えたというか、そもそも「天皇」というのは律令体制後の称号ですし、「神武天皇」「崇神天皇」などの「漢風諡号」は記紀が編纂された数十年後の8世紀中ごろに後から送られた名前です。つまり、記紀が誕生した時点ですら、「神武天皇」という名前は存在せず、かつて「イワレ彦」という人物が存在していたことが分かっていただけです。「漢風諡号」だけでみたら、その人物は絶対に天皇だと思いますが、イワレ彦とか、ミマキイリ彦とかでみたら、その人物が絶対に天皇(というか、倭王)だったと断定する印象が薄くなります。

よって、イワレ彦(神武天皇)がヤマト王権の初代倭王だったかどうか疑わしいです。私は神武東征はあったと思いますが(あったとしたら、紀元1世紀の中頃から後半のあたりか?)、でも、イワレ彦の東征はヤマト王権の建国を表してないと思います。ヤマト王権の建国は、それよりも前で、出雲国譲りからで、神武東征とは、ヤマト王権が建国してから数十年経過した時に起こった内乱でしょう。

南北朝時代なんかでも、北朝の人物が天皇なのか、南朝の人物が天皇なのかでもめたぐらいです。たしか、幕末までは、南朝の歴代天皇は、歴代の天皇とカウントせず、ただの親王という扱いだったと思います。

同じようなことが、大海人命(天武天皇)の時にもあって、誰を歴代のスメラミコト(天皇)とするのか、解釈でもめたはずです。誰ともめたのかと言うと、熱田社の尾張大隅でしょう。

これは、出雲国譲りと関係してくる。出雲国譲りって、ヤマト王権の正統性にとって、ものすごく重要な話なんですよ。これが、神武皇統の大海人命(天武天皇)にとって、重くのしかかっていたのです。

では、とりあえず、ここで。返信をまっています。

投稿: 匿名太郎 | 2011年8月20日 (土) 20時56分

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