小説木幡記:古代と現代
過去は取り戻せないが、過去は人としてある余の脳の中にのみ再現される一つの現実世界なのだ。この現実世界は、眼前にあるもう一つの現実世界とは、いつも異なってきた。どちらが住みよい、気持ち良いかと問われれば、過去の現実世界と即答できるほどに、現実から遠ざかった生を歩いてきた。
話しが余一身を越えてくると、歴史に片足をかけることになる。歴史と言えば好みに若干の強弱があって、小学生ころから神話時代と人時代の端境に強く惹かれてきた。古代史と言えばわかりやすくなる。その場合、先端の現代人(笑)とは違って、露骨に地名や自然を眼前の現実に合わせるのが通例だった。
わかりやすい事例だと。
奈良県桜井市に三輪山があって、その近くから三輪山や西の二上山の風景を眺める。その風景は禽獣の眺める風景ではなくて、古典としての古事記や萬葉集、あるいは正史としての日本書紀によって描かれた風景である。だから一木一草、川、山なみ、すべてに歴史が宿っている。それは、必ず他の何者でもない、抽象的名辞ではなくて、固有の今そこにある三輪山であって、二上山であって、紀に記された大津皇子であって、崇神天皇でなければならなかった。
そいう幻想幻視じみた体験の上で、初めて現実をみることができて、そして後日にそれを想起することができるようになった。だから、余の世界観は、見たままありのままという姿は金輪際なくて、過去の歴史や物語によって脚色された、実に人間らしい世界視なのである。
そう思ったとき。
また、世界の膜がはがれて、別の世界が眼前に立ち現れてきた。幾たびも幾たびも、その変化していく風景を眺めることで、余は生の充実を味わって来たのだ。
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コメント
アンリ・ベルグソンを彷彿とさせますね
(だから一木一草、川、山なみ、すべてに歴史が宿っている。)
このくだりを読んだときベルグソン(ベルクソン?)を思い出しました。
彼の(物質と記憶)に去年チャレンジして、難しすぎて断念しました。
ただ人間の記憶というのは脳の中にあるだけではない、具体的な事物に記憶というのは刻まれているのだ、という風な話が印象に残っています。
事物と人間の記憶との関係性とでも申しましょうか。
ベルグソンは大昔(人間の老化、衰退は固有名詞の忘却から始まる。それは一旦拡大した自己の照射する世界の縮退を意味する)なんて難しい話を新聞で読んで興味を覚えました。
ちょうどその時、上司が(俺も歳かなあ、人の名前が思い出せないことがちょくちょくあるんだ。正直に言うと君の名前を思い出せないこともあるのよね。)
なんてことをのたまいます。
席を隣にして、毎日のように僕たちが作っているマシンのスペックやら納期やらを大喧嘩しながら議論していた先輩です。
当方の名前を思い出せない?
そりゃああんまりだと思って、このベルグソンの(人間の老化は固有名詞の忘却から始まる)という説を紹介してやりましたです。
投稿: ふうてん | 2011年8月 7日 (日) 13時37分
ふうてんさん
コメントありがとうございます。
記事をしるすのに精一杯でちゃんと答えられないのがもどかしいです。
ベルグソンさんに逆らうわけではないのですが、若い頃にやたらと固有名詞(人名、地名、歌名、歌手名、バンド名、小説名、作者名、評論家名、登場人物名、思想名、特殊用語、……)を覚えたのは、あれはあれで、世界をきちんと把握することよりも、われ先に、まるで犬のションベンみたいに、印をつけて、我が領域にするという陣取り合戦というか、訳知り顔というか、一家言振りといか、ようするにばかばかしさの極致だったなぁ、と今は思えるのです。
だから。
若さはまぶしいけれど、そのころの強烈な銘記を取り返したいとは思えません。暇だから、バカなことばかり覚えていた、という感じですなぁ。
物事の実相は名前の奥にあって、名が実相と等値なのは、まれなんでしょう。Muには、三輪山とか二上山とは名前を越えた実相ですね。
投稿: Mu→ふうてんさん | 2011年8月 7日 (日) 20時36分