小説木幡記:MuBlogのこと
また少しMuBlogの休みが続いたが、記事を投稿することについて、気持ちを込めて持続しなければならぬ、と思い返す事情があった。
何の気無しに惰性で書き綴る小説日記でも、読んで興を覚えてくださる方々も居る。いちげんさんだけではないblog世界を再認識した。
☆日曜作家記事はどうなされましたか~と。
暇になったなら、という言葉は禁句と知っている。暇になったら読書しようと思っていた初老が、定年になったとたん眼病で小さな文字を読めなくなった話がある。だから、その督促話を聞いて、とりあえず9月になったら、また活動を再開しようと思った。
ずっと何年も第四作『湖底宮』が書き止まって居る。一気呵成に初稿を完成できぬ状態である。500枚はすでに過ぎているのだから、あと200枚程度で全体初稿をまとめればよいのだが~。
書けない事情はあるのだが、止まっていたら永遠に先にすすまぬ。というわけで、第五作、怒濤のシリーズ完結『嵯峨野』編を先に書き出す用意もしている。
ああ。
それにつけても、日曜作家で良かった(笑)。平日作家でこれだけスランプが継続すると、今頃はネットカフェ遊民になって居ろう。
☆ヤマトタケルさんの続きを読みたいのですが~と。
これは今夏、夏期論文のキモなので、そちらを先に書いてしまわないと、すっきりした気持ちでMuBlogに対面出来ぬ。
神から人への下降の悲劇は、神聖を剥奪されゆく「人」の主観的悲しみで、よそからみるとそれは、「苦痛」なのだと思う。
老いた余が、30前後に書かれた非常な才能ある思想家の文章を理解できぬのは、理解する前に、あらためてその才能の深さにふれて驚愕しておるせいもある。あまりに大きな驚きに、余はなすすべがない。
おそらく記紀に描かれた倭建命が千数百年たっても色あせぬのは、その神と人との架橋を体現した典型的なキャラクターとしてなのだろう。
皇子である立場も、良かった。
永遠に双六を上がらぬ未完の立場。
いや、ロマンとは、やはりそのような悲劇性なしでは成り立たないものと、いま理解した。
『戴冠詩人の御一人者』は、当時、北村透谷文学賞を受けて居る。当時にあっても、それだけ目立つ内容だったのだろう。
■このごろ読書感想文が少ないが←余の内奥心
たしかに膨大な文庫小説を読み散らかしている割には、感想文が少ない。
MuBlogの真骨頂は、読書感想文と歴史紀行文のはずなのに少ない。
反省しよう。
~
邪馬台国紀行・論説問題は置いたままだし、森氏小説の電脳版作品には言及していないし、なかなかに。
そういえば、鉄道図書館関係、ジオラマ関係、DCC問題も筆が進んで居らぬ。
~
要するに、心にゆとりがないのう。
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