小説木幡記:次の気楽さ(笑)
長く20代の青年たちと仕事というか、大学で一緒に過ごしてきた。
そこで最近の感慨だが~。
ながくにやってきたことだから、随分年季も入って手慣れたところが多い。しかし昨今の大学は教員が教育・研究以外に膨大な責務を抱えているのが実情である。
ある意味で教職員は、おぼれかけているともいえる。
話変わって最近も年金の書類をそろえたり書いたりして思ったのだが、これほど複雑怪奇なシステムを一体だれが考えたのか。そいつらは頭がよいというよりも、よほど暇で、することがないから限りなく複雑にしていった、そして人智を越えたバグの応酬に直面し、ますます複雑にせざるをえなかった、と思ったところだ。つまり、そういうシステムを作る者たちを賢明なエリートと思うのは、後進国なんだな。要するに仕事をするために仕事をつくるという、~まあ、よかろう。
そういうもんだ(呵々大笑)
最近の大学の教員仕事も、なんとなく年金事務所の複雑怪奇な事務処理をこなし、我々に要求するシステムに似てきているな、と長嘆息した次第である。ああ、我々教員が年金事務システムみたいな教育システムを動かして、対象学生達を間尺に合わないシステム要件~と嘆いておるという、奇妙な感慨である。
で結論だが。
なんであれ、余はいずれ、余の未来はそういう複雑怪奇なシステム系から外れて、悠々自適だなんてのは大嘘で、なにか毎日が日曜祝日の、毎日がぼんやり黄昏れた、そんな世界に刻一刻と近づいていくという、深い深い安心感だな。もう、そう、もう二度とバカな複雑系システムにまきこまれるなんてことはない、~それがいつかはまだ予断を許さぬが、次は、ネクストこそは、単純明快なシンプル世界しか残っていないという安心感だ。
お茶漬けと塩昆布の味わい世界だね。人生の極地なり。
ああ、それに比較して。
余の眼前の若者達は来年、あるいは数年後、確実に複雑きわまる社会システムに絡み取られて数十年間は身動きできず、ただ毎月が次の給料日のためにあるような、~おお、おお、素晴らしい新世界がまっておるのじゃ~。
というわけで、人間(じんかん)、至る所に青山(墓、死に場所)あり、とおもえば、複雑怪奇なシステムも「おもろいゲーム遊び」と考えて、そこで、上等なゲーム作家の造ったゲームのほうが、楽しみがいがあるのう。
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