小説木幡記:心に自由や柔軟さをとりいれたい
たとえば今朝、午前4時頃に起床し、書斎の戸を開け、外で待っているハルキ猫君と冷蔵庫前まで行き、鰹節をひとつかみあげて、日課の一つを果たした。バター&蜂蜜トーストやゆで卵をもくもくたべて、茶を飲んで、分けのわからない薬を飲んで、ときどきベッドにもどり部屋をくらくして10分、15分と横臥して、起きて五時を確認し、玄関ドアをあけて新聞を入れて、逆にハルキ猫君が朝風浴(新語:あさかぜよく)をできるように、ドア開放をした。日課の二つ目だった。
さてそこからが今朝の問題、課題、難題だった。
余の土曜日は大体責務免除である。要するに横文字カタカナで申すと、オフ日だな。なにをしてもよい。葛野へ行って工作するもよし、たまった校務をさばいてもよし、木幡で横臥してSF三昧もよし、町にでても、遠方へドライブしてもよし、水無瀬神宮、貴船神社、岩屋、久しぶりの天理・石上神宮、あるいは高野山、……。RSは速いからどこへでも行ける。常時昼食用に一万円くらいは財布に入っておる(微笑)。日曜作家してもよし、もちろん日曜評論家、日曜工作者、プログラマー、……。なんでもできる。もう、高齢じゃから、アルバイトも婚活も就活も勉強もせんでよい、この気楽さ。
ああ、それなのに。
それなのに。
おそらく結局、ぼんやりと、TVをみるでもなく読書するでもなく、妄想にひたるでもなく、ドライブするでもなく、ただたそがれて、ぼんやりと横臥して夕方になって、夕風呂にはいって、たぶん、午後9時頃には熟睡しておるじゃろう。
こういう状態を以前は、単純に「出不精」「じゃまくさがり」と、解釈してきたが。
今朝思った。
もしかしたら、余は重度の「引きこもり症」ではなかろうか?
いや、きっとそうにちがいない。
ただ、症というからには病の一種なのじゃろうが、これほど落ち着いて、気持ちの良い、気楽な病も他になかろうな。うむ。
いや。
これが自由というものなんだろう。
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント