小説木幡記:夏が来れば思い出す
先日研究室近くのバルコニーに立って、眼下の日本庭園やテニスコートを眺めておった。地上から離れていないので、キャンパスを歩く者やテニス練習をしている学生が蟻には見えなかった。最近入手したLGB(Lehmann Gross Bahn:レーマンのでっかい鉄道)の1/22程度のフィギュア感があった。つまり、そこそこ大きく見えた。
LGBの話は別の日にするとして、陽炎がゆらめく夏のキャンパスを眺めている内に、記憶の重層、多層記憶の既視におそわれだした。いつの夏か、あの日の夏か、この年の夏か、前後関係もいつの頃なのかもまるで分からず、ただ「そういうこともあったなぁ」という残像である。キャンパスが無人になったり人で溢れたり、水まきをしている人がいたり、書類を持って歩いている人がいたり、夏の集中授業の夕方、授業終了時なのか学生のかたまりが足早に門に向かっていたり。
まるでいつのことだったか分からないのだが。
ふと、高度の人工知能なら、こういう記憶をどんな風にして生育させればよいのか、と思った。高機能ロボットが夢を見れば完成だが、簡単に夢を見させるのは難しいだろう。特に季節感をもった独特の肌触り、蒸し暑さ、日差し、夕立のあとのすがすがしさ、~このような記憶を埋め込ませるのは難しい。
だが、人もそんな風な、なんの役に立つかも分からないような世界認識の記憶の断片や、五感の肌触り湿り温度、まぶしさ、蝉の鳴き声、そんな意味のない外界情報の断片的記憶によって、ひとりひとりの人がまさにあの人ではなく、この人として立ち居振る舞いしていくのだろう。
そしてまた、先日の余のバルコニーに立ち尽くしまぶしさに目を細めていた記憶も、余の余たる部分として余の記憶に織り込まれていく。
ああ、またこの夏も、いろいろあって、取りこぼさぬように、気持ちをひきしめよう、ぞ。
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