小説木幡記:小松左京さんの死
80歳で亡くなられた。ついさっきなにかの雑誌で語っておられたのを読んだところなのに、はかない。
余は小松さんの長編を数冊よんでおるから、浅い読者と自認しておるが、その印象や感動や影響力の点では深い作家だった。
どの作品からも理屈と情感とを味わうことができた。
『果てしなき流れの果に』、『継ぐのは誰か』、『日本沈没』などが好みだった。他の長編、中編、短編と、こうして書いていると数冊ほどではなかった、けっこう、読んでおった。
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話したこともないし、日常も知らないのに、なぜかものすごい喪失を感じてしまった。
もう、二度と新作を読めないという諦めや安堵感があった。安堵感は、旧作だけを読んでおればそれで良いという、後退した気安さだが、なんというか、小松左京という世界の中でのオリジナリティなどは味わいたくない、つまりお茶漬けの味を左京世界に求めたとき、奇想天外な新作がもうでてこないというのは、強烈な安心感なのだ。
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一般に若い人や、商売人は、新しいもの、オリジナリティのあるものを求めるが、そんなもの長く生きていると笑止千万な感覚で、すべてはすでにこの世にあって、ときどきそれを掘り出すという楽しみに比べれば、児戯に等しい楽しみ方なのだ。で、おそらく余の許容できる世界観、特に未来観においては、左京さんの中にすべてあるのだから、もうこの上は左京さんだからといって、無闇に新世界観を出されると、余の容量を越えて疲労が激しくなると言うのが余の持論である。
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言ってみれば、すでに左京さんは素晴らしい世界を造られたのだから、そしてその中の見慣れた情景、月次な風景の中で成長した余なのだから、これ以上に付け加える必要はどこにもない。それが左京さんへの弔辞、余の気持ちなのだ。
小松左京さん。長い間、ありがとうございました。大兄と一緒に河内あたりの山中の古墳を一緒にのぞき込む機会は無かったのですが、いつか一人で大兄を忍びながら、古い日本の山河を歩いてみます。
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