小説木幡記:東西南北を見つめて充実した引きこもり
滅多に旅する身ではない。しかし東西南北のどこか近くへ走ることはよくある。主に自動車RSだが、鉄道もよく使う。まれにしか乗らないのがバスやタクシーだ。バスは路線がわかりにくく時間も定かではない。タクシーは距離に比例するはずの運賃がよく分からない。たとえば停滞に遭うと料金加算があるが、あれはサービスの減少(時間遅れ)だから、むしろ料金を減算すべきだ。で、東は滋賀県の大津市や近江八幡。西はせいぜい神戸が限界、ときどき近くは大山崎あたりまで。南は奈良市、桜井市、飛鳥あたりまで。北は、坂本や高島市や長浜まで。それが余の東西南北だ。
今夜は八坂神社、祇園祭の宵宵山にあたる15日だが、どうにも今夕の京都市内を想像すると出かける気にはならない。暑さとか疲れとか、そういうこともあるのだが、逆にせっかく京都にいるのだから見ておいた方が良い、とか、ちゃんと出歩いて足腰をきたえて、気を紛らわしたり好奇心を充足させるのが良いと、いろいろ心中はまだ+-正負で拮抗しているのだが、結局、自宅木幡を冷房して暗くしてぼんやりするのを選んでしまっている。
引きこもりがだめなのは、病的になるからだと勝手に思う。本人達はきっと苦しんでいるはずだ。しかるに余は暗くして寒くすると、うっとりぼんやりしてきて、猫君みたいに横になって目を閉じていく。
逆にこういった闇に溶け込む時間がないと、イライラが生じ、怒りっぽくなって、いろいろミスも発生する。余がたびたび描く余自身の引きこもり、つまり闇への溶解は、きっと治療の一種なのだろう。
さて、電気を消そう。
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