小説木幡記:記憶のあやうさとそれが真実
未知の方から余の過去記事をたどって、あることの消息・問い合わせがあった。そのことで、昔書いたMuBlog記事の勘違いを思い出し、さらに当時の別のことも鮮明になってきた。人の記憶はもちろん当てにはならないが、そう思い込んでいた数年間は、それが余の真実だったのだ。
だから。
また、「いや、そうではなかった」と、余はなんらかのことで記憶の修正を迫られる可能性もある。もちろん、余自身の記憶だから、いくらでも直せるし修正できる。
ということは。
真実は記憶の数だけあるということだな。
付録1
今日、学生の発表で、「理解」と「認識」の違いが話題になった。長尾真先生の「わかる」についての論考だった。いやはや、たじたじとした。近頃の若者も、難しいことを話題にするようだ。
付録2
熱中症時代だな。
寒い国、ノルウェー原産のハルキ猫くんのことが気になって、葛野での日中は仕事にならなかった。毛深い猫くんなので、さぞや暑かろう。大抵は玄関のタイルの上でお腹を上にして両手両足を広げて目をつむっておる。暑いのだろうな。ときどきせめてお腹の毛だけでも刈ってやろうと思うのだが、なんとなく、咬まれそうで手を出せぬ。ままよ、もう少し辛抱すればまた秋になり、冬になる。なにごとも、気長に待とう。
★
ではまたあした。佳い日が来ますように。
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