小説木幡記:飽きることの壁と迂回路
人生に飽きたとうそぶくことはあっても、それはその場の気分であって、その夜も次の朝も元気に食べて日常をこなしてきた。よほどのことが無い限り、眠れないとか食べられないという、ごく普通に見かけられる人の習性から外れてきたのが幸だった。
余の人生は眠りや食事によって、担保されてきた。
だからこそ、そこから阻害される人生って言うのは、さぞや苦しいものだろう。
人生とはバランスとつくづく思うこのごろである。
わかりやすく申せばどっかで帳尻合わせするものなのだ。自分でするのか嫌々させられるのか、気がついたら帳尻があっていたのか、場合によっては破産、とか「御破算でねがいましては」とか、麻雀卓をひっくり返したり、帳場に油をまいたりと、穏やかな帳尻あわせから過激なものまで、人々によって異なるが、バランスを取る、収支決算をゼロにするという点では同じ意味を持つ。もちろんマイナスを言う人もおるが、それは生者の言い分で、棺桶の中で燃えてしまえば、ゼロに帰結するものだ。
そう。バランスをとるものだからこそ、余にも負のバランスがいろいろあって、「本当に、正(+)とつりあうのかな」と心配になることもある。
でその負(-)とは、「飽きる」ことがマイナスの大きな要因だった、と痛感。飽きるといっても忘れたりゴミ箱に投げ捨てるわけじゃなくて、きちんと保留したまま持ちこたえながら、「飽きた。今は考えたくもない案件じゃ」と、おもうわけで。それが多すぎる。多すぎるから時々めげてしまう。
と、なんだか判じ物じみた記事になりそうなので、事例を一つ。
たとえば余は大昔、ゲーム制作に没頭していた。今と違って、一人で物語を考えて、一人でシステムを鉛筆でスケッチして、一人でコーディングして、一人でコンピュータ言語で記述してデバッグして、ときどき音楽やイメージ図案は近親や知り合いに別注して、それをまとめて一つのゲームを造るわけで。RPGの場合、デバッグが全工程の80%くらいかかり、きつい仕事というか楽しみだった。余しか知らない秘密コマンドを組み込んで置いて、シーンを飛び越えたりと、~愉しい。
こういう仕事にも、あまりに熱中しすぎると3年間くらいで心身が駄目になり、結局、その後のことを放棄した。放棄して別の世界に熱中し出した。普通ならばそのままゲーム世界に没頭した人生を送ってもよいようなものだが、そうはならなかった。
ゲームに飽きた。そして別の道に入った。
しかし、いまだにPascalを入れ直したり、Pythonでゲームは造れないだろうか? と夢想したりしている。あるいは、誰でも造れるとか噂のアンドロイド・フォーンでゲームを造りたいとか、野望ちゅうか、夢想というか、妄想に浸ることも、ある。勿論、iPadでゲームを造ろうとか、そういう図書を冗談のように買って読んだりしている(笑)。
こういう事例が、枚挙にいとま無い。数えてみれば、10代前後から、その時々命がけだったことが一ダースもあって、いまだに夢に見る。そこで、今はMuBlogを書いたり授業に熱中しているのだが、その内に飽きてしまう事をこっそりひそかに怖れておる。しかし、その一ダース以上の命がけ案件を、年々ごとに繰り返していけば、「人生は飽きない脳~」となる可能性あり。
さて~、……。
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コメント
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投稿: game bot | 2011年6月13日 (月) 14時01分