小説木幡記:遺伝子操作と原子力操作
いろいろなことは、程度をわきまえないと、災厄をもたらす。それが今朝のテーマだ。
遺伝子操作が本当のところ、どういうものかは知らない。イメージとしては遺伝子による病気を治すことからはじまって、DNAをいじくってキメラのような、怪物を生み出すところまで思い浮かべる。後者は、人間をいじくりまわし改造する術を得た人類が、なにをしたくおもって、どうすれば商品化が伸びて、誰かが儲けるかまで、考えが及ぶ。世の中には超能力を持ちたく思い、人とは異なる風体(顔や肌色、目の色)をしたく思ったり、脳を替えて夢幻脳、快楽脳、幸せ脳に変えることを願う者もでてくるだろう。それらはすべて商品化に直結する。
事例:豹の肌、体毛を持ち、10本の手を持った、美しい女性。攻撃力は人の10倍、知能は人の5倍。改造価格は一週間の入院込みで、500万円。
そういう技術が経済法則によって、世界を覆ったとき、おそらく、人類はやがて破綻するだろう。つまり、制御を外れ暴走する。
原子力も、制御を外れ暴走しだすと、人智人力では止められない力とか影響をもたらす。要するに、火事に放水し、燃え尽きれば無害という、一般的な常識にはあわないのが、原子力操作だと分かった。
そして話が飛ぶ。
大昔、古代の神さんは、遺伝子操作や原子力操作と同じ以上に、すさまじい「力」を持っていたのだろう。逆らうとか従うという、西欧的な人間の生き方とは異なる世界があったのだと、想像した。ただただ、お祭りするよりしかたない。神の暴走があろうがなかろうが、ひたすらお仕えしてお祭りして、毎日社の境内を掃除するしかなかった。しかも、遺伝子操作や原子力操作とは異なって、「怖いからもう止めた」という人類の意志など、なんの意味もない。たとえば「大物主」という神さま。その荒御魂は、人の生死などまったく無縁に、自然に振る舞っておられたのだろう。
そうなのだ。気がついた。
自然とは、人の生死などまったく気にせず振る舞う。地球が滅びることだって、平気なのだ。人類が考え出したいろいろな価値観とは無縁なところに位置する。
遺伝子も原子力も、自然なのだろう。
だから、遺伝子操作とか原子力操作というのは、無謀の極地だと、思った。
触らぬ神に祟り無しという俚諺を、今少し思い返す時期かもしれぬ。
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