小説木幡記:平成の精神
どんな時代も表面の華やかさ、裏面の汚らしさ、表裏の正義や理念や失意の連なりでできあがっているのだが、さて平成の御代はどうなんだろう、……。
と、考えては見るのだが、われら団塊世代が作り上げそろそろ去ろうとしている世界は、どうしてもアラばかり目立ち、気持ちは父祖の造った昭和に行ってしまう。平成は失敗作だったのかもしれない。昭和がつくったものは、団塊世界の唐変木な夢想と悪夢と悪意と理想とがこね上げた、わけもなく懐かしい青春たちだった。そしていま、青春が滅びていく。平成にうまれてきたものは、もっと分けのわからない、というよりも目も口もぼんやしたのっぺらぼうの、つかみどころのない現代なのだ。
ところが。
その現代をいまのところガイドしているのが、多くはまだわれら団塊世代のしょうもない一部、分派活動しているような者達で、われらがそろそろ消えていこうとしている間隙をぬって、しらぬまに大きな顔して平成を我がものにしようとしている。
そういえば。
小学校のころなかったもの。クーラー、新幹線、海外遊覧、シャワー、原子力発電。
となると、そのころなくて、現代、大きな顔をした物たちは、原子力発電の電力でまかなわれているのかもしれない。
クーラーも新幹線も海外遊覧もシャワーも、余は全部好きなものだから、これらは父祖というよりも我ら団塊世代が作り出し維持してきた物なんだろう。
と、すると。
現代のしょうもなさは、結局我らのしょうもなさで、その最後のあだ花が政治をガイドしている連中なんだ。
なんだか、馬鹿馬鹿しい現実だ。
ああ、余の大好物。PC、電脳世界。こいつは、電気を喰って生きておる、おお。
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