« 小説木幡記:黄昏れに還る | トップページ | 小説木幡記:とりとめもなく:都の右京 »

2011年6月21日 (火)

小説木幡記:無縁有縁

Mudsc00151 縁があるとかないとかは、日本語化された仏教用語だと思うが、無縁仏とか比較的社会に溶け込んだ言葉である。
 しかしインド古来の仏教用語の解釈をすることに記事の目的はなく、ただ自然に「縁がある/ない」を考えて見た。直訳すると、付き合いがあるとか、関係があるとか、行き来がある、そのくらいの意味でのことだ。

ご縁がありますように
 高校生のころに、ませた学友が五円玉をみせて、水商売ではこの五円玉を綺麗につつんでなじみの客にプレゼントする、……。と、言っていた。真偽はいまだに確認できないが、五円玉→ご縁がありますように。と、面白い地口なのでいまだに覚えておる。

縁があるのも無いのも
 死んでしまえばすべてヌル(ゼロのようなもの)だから、現世できっちり落とし前を付けて生きていけば、すっきりくっきりする。縁のないものに縁を無理に持たせようとしたり、せっかくの縁を無駄遣いするのも良くない。
 家族や友人知人に縁があると見えたなら、その縁を維持するくらいのわずかな努力や工夫はして置いた方がよいな。何れ虚無の海に溶け込んでしまうと分かっていても、現世は大切に思い、きっちり生き抜こう。

無縁
 無縁なものははじめから無縁なのだから、神経を使う必要もない。切り捨てていけば身軽になって、呼吸も楽になる。切り捨てるほどの気力もないならば、はじめから縁が生じるようなことはせぬがよい。
 余のように、じっと閉じこもって闇を見つめておれば、悪縁の生じることも少ない、が、一般にはみんな外へ出て行きたがる脳。往々にして世間や世間通は、嘘をつくから、欺されないように月に数度は闇浴すれば、心が洗われて無縁にも強くなる。

様々な縁
 自動車とは良縁が続いてきた。大抵は気に入って乗っていた。だから経済要因も強いが、一旦選ぶと4年~10年は乗り続けた。乗り換えても同一車種を乗り換えるのだから、自動車縁は深い。
 鉄道模型縁は、まだ5年程度だが、縁度は深い。事情があって、小学校のころに数年間Oゲージという模型にのめり込んだ経験がある。その再燃もある。、
 小説縁は、これは、いろいろありすぎて、一筆書きができない。またの機会に。
 他にいろいろあるが、良縁が多い。

|

« 小説木幡記:黄昏れに還る | トップページ | 小説木幡記:とりとめもなく:都の右京 »

小説木幡記」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 小説木幡記:無縁有縁:

« 小説木幡記:黄昏れに還る | トップページ | 小説木幡記:とりとめもなく:都の右京 »