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2011年6月 4日 (土)

小説木幡記:ちかごろ読書考

0aimg_5298 このごろ読書するのは限られた時間と場所だけになってきた。それだけせわしなくうごいているのか、あるいはそんな環境に身を置いてしまっているのか。もっと読み浸りたいと思うのだが、俗事におぼれ、読書の根気に追いつけなくなっておる。

北森鴻の小説
 就寝前のベッドで、あたまにでっかい枕を二重に挟んで文庫本を読んでいる。数日前に読み終えたのは、触身仏/北森鴻(新潮文庫)だった。300頁に5編の民俗ミステリーがあって、ひとつひとつは60頁程度の短編である。一つの短編を二晩かけていたから、30頁も読むと毎晩眠ってしまっていたのだろう。われながらものすごく遅読になったものだなぁ。

 ただし、一気呵成によむのではなくて、北森さんの短編は、ひとつひとつが新しい発見だから、暗い天井を眺めてため息をつく時間が多くて、なかなか進まないのだろう。それほどに深い。「御蔭講(おかげこう)」でのわらしべ長者伝説の展開に接し、余はうなりこんでしまった。「講」とわらしべ長者をひっつけるなんて、余の想像を超えておった。

 これが、今夏に予定している「夏季論文」の対象評論集になってくると、数頁読むたびに「うむむぅ~」と、うなり込んでしまう。一般に評論文の方が、さらに遅読になるものだ。それは難解であるまえに、情報量が小説世界の中に閉じこめられたものよりも、はるかに外部に膨大なものが横たわっているからなのだ。たとえば、美術研究・評論文で「若沖」とあるならば、おそらく書き手は余が若沖の鶏や象を熟知しているものとして、そこからさらに論を深める。ましていわんや今夏対象図書において、記紀や古社寺の結構、史においておや。余は原則、小説世界はそれだけで完結しているものとみなし、それを求めておる。文芸評論はその紙背に巨大な歴史がある。

異国のJMRI
 実はもう一つの読書があって、それはiPadなのだ。
 JMRI(邪無理とでも読むのかな。なんと読んでもよかろうが、定説はある。CIAをシアと呼ぶ人は少ないだろう。FBIをフビ-とも言わないだろう。だからJMRIを「じぇーえむあーるあい」と、JRの兄弟みたいに読みかけるのは~)どうしても英語で読まざるを得ないものがあって、JMRIのような{PC+鐵}世界になると、日本でも使う人が少なくて、翻訳図書をみたことがない。だから仕方なくネット上の記事を必要に応じてiPadに取り込んで、にらみつけるわけだ。ときどき翻訳しましょうかと、ブラウザがかたりかけてくるが、不用意に翻訳を任せると、こなれていない訳文に脳が混乱し余計にややこしくなる。

 この場合は人間翻訳の方が、特殊用語は別にして、文体そのものが日本の特殊世界の文章よりも素直だから、絵や解説を読んでいるとなんとなく分かってくる(笑)。だからこそ、特殊辞書を組み込めば、自動翻訳も上等な解をだすじゃろうが、それまで待ってはいられない。

 日本は大昔から漢文や、そして幕末になるとオランダ語や英語や仏語や独語や~を読まざるを得なくて苦労が多かった。いやいや大昔の外国の人達も、ギリシャ語やラテン語を読めないと公職に就きにくかったし、あるいはもっと昔なら、くさび形文字やヒエログリフを読み書きできないと、無教養に思われたし~。だから今更高校英語「JMRI」を読んでまで、{PC+鐵}國教養人になりましょう、と余が思うのは、歴史・人類史の則にしたがったことなのじゃろう、脳。

追伸
 肝心なことを言い忘れましたな。
 なぜiPadで読むかというと、膨大な情報量、あちこちの情報源からいろいろ集めてきて、それをフォルダというかiPad 書庫にまとめていくと、情報の整理整頓が楽で、あちこち探し回らなくても、巨大な図書を一冊持っているようなものだから、ネットや異国の情報を扱うには、実に便利この上もないからだ。

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