小説木幡記:連休真っ盛りの子供の日は子供になって
一般的なサラリーマンの楽しみはボーナスと連休と、耳にしたことがある。ボーナスはさておいて、連休については町も列車も高速道路も人で混んでいる。ということは、連休を支えてくれている人達が沢山いるわけだ。新幹線の運転をする人や、管制室に居る人が、「わし、連休やし、休むわ」とみんな言い出すと、止まってしまう。パトカーに電話して、「連休中なので、5月9日月曜まで、事件の処理や犯人逮捕はお休みします」と言われたら、呆然とするなぁ。
~
しかしながら、人は自分自身の環境や条件において、心ゆくまで愉しむ必要がある。自粛自粛が、怯懦に近い印象を与えるのは、まともな大人なら分かっているはずだ。もちろん孔子さまの時代なら、喪に服するとは、1年~3年間、風呂にも入らず、ジサイ(注:古代の船に乗る、生け贄のような役割の人)のような様子で暮らすらしい。江戸時代でも、ことあるごとに、たとえば贅沢もふくめて、歌舞音曲が禁止される時期もあった~。今はそういう時代ではない。だから、連休に遊べる人は精一杯美味しいものを食べて、遊んで、世の中を潤うようにした方がよい、と思った。経済、金の流れは、人でいうと血液の流れ。詰まったり血管が細くなると、脳梗塞や心筋梗塞で一命をおとす。社会もニコチンで血管を収縮させるような自粛が進み過ぎると、詰まる。さあ、町にでてお金を使おう!
~
勿論、余などはひたすら家に閉じこもって瞑想しておるが、これは世間の働いている人や、不幸に見舞われた人に対する自粛ではなくて、それこそが最高の贅沢だからだ。いろいろ紆余曲折があって、連休中は休暇を取れる状態にあるのだから、それを神仏の思し召しと考えて、堪能させてもらっておる。
~
さて、と。前振りはそこまで。
実は、DVDなど見ておる。読書もしておる。瞑想ばかりしておると、修行不足のせいか、妄想にかたむきがちなので、他人が作った映画や図書の力をかりるわけだ。余はそういうものを愉しめることを快適に思い返しておる。人と一緒にする楽しみばかりだと、調整が難しい。一人でうまれ一人で死んでいくのだから、中間くらいはいろいろな人とともに過ごす時間があっても悪くはないが、いちいちGWに集会を繰り返すのは面倒だろう。だからこそ、一人でTVをみたり散歩したり写真を撮ったりして、充実することが良いとおもっておるのだ。それが結論。
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
同感ですね
子供が学校へ行くようになるまでは、流れ者には帰省というセレモニーがありました。
東京から伊予となると5月連休かお盆休みか正月休みしか帰れませんでしたね。
そういう意味では連休はやはり有難い休みでした。
子供が小学校へ行くようになると学校の休みと会社の休みは一致しなくなり帰省は難しくなります。
結局、正月も5月連休も盆休みも国立で馴染みの店を冷やかすくらいしかありません。
仕事のことを忘れて、何もしないで一週間ほど過ごすと頭が空白になりますね。
これが勤め人の連休の値打ちだと思いました。
会社勤めが終わって年金生活者となった今は連休も何もあったものじゃございません。
これはこれで何だか寂しいような気もするのでございます。
投稿: ふうてん | 2011年5月 5日 (木) 21時17分
ふうてんさん
毎日が日曜日という感触は、若い頃には希望であっても想像はしにくい世界でした。
子供の頃はひたすら夏休み、正月、春休みを楽しみにしていました。しかし休みは気がつくと終わっていて、十分楽しめたと思ったことがないのです。
サラリーマンが一週間も頭を空白に出来るのは連休以外には無いでしょうね。平日にそういうことになると病院へ連れて行かれそうです。
そうそう、子供らの休みと職場の休みが重ならないことが多いです。夏休みは比較的自由ですが、勤め人はせいぜい1週間で終わりでしたから~
そうだ
やがて永遠の休憩に入る。そのための準備も少しずつしましょう。つまり心込めて日々、楽しむわけです。
だから四季折々とは言いませんが、年1のメナミなんかはふうてんさんにも必要です。
投稿: Mu→ふうてんさん | 2011年5月 6日 (金) 07時32分