小説木幡記:深夜に目覚めて想うこと
余の年齢というよりも、物心ついて以来、それは20前後からだが(それまでの物心(ものごころ)には世界と自分との対比が無かった)、ずっとなにかしら物思いにふけってきた。もう、習い性と言っても良かろう。そのことで良きこと悪しきこといろいろあったが、今に続いていて、それがことさら苦痛ではないということは、物思いにふけるのが余の基本性質、自然なのだろう。
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1.記憶、生死
たいしたことを考え込んでいるわけではないが、記憶、思い出や生と死。とくに生と死とはひっきりなしに考えてきたので、余は別の機会があれば宗教者になっておったのかもしれない。
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2.生に伴う恐怖
今の関心は、やがてくる「死」、残された「生」をどんな風に楽しむのか。あるいは、剥奪される人生。それは仕事をとられ収入を取られていく、そして近親知古の死によって、それまでの人生を引きはがされる恐怖だな。もちろん、生命体としての男盛り、人盛り時期を過ぎていくことによる、心身の機能低下への怖れも強い。
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3.永遠の宗教
神々の道に想念を飛ばすことによって、このような現身(うつしみ)の恐怖や悲嘆を、永遠の相の中に溶け込ませることができて、個々余の小さな悲哀が大きな何かにつつみこまれる。それが安心感をもたらす。もちろん多くの人にとって、それは教祖や先輩や教団(注:一般に社会や組織、会社官庁は教団だな)仲間との語らいによって、より強く結ばれていくのであろう。これは神道も仏者も似ているところだ。
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4.ただの岩が磐座に
余の場合は、他に教祖も教団も祭祀も必要とはしていない。それに類したものを求める時は、一人で山を拝み、一人で磐座(いわくら)に座り、一人で目を閉じて神々と語り合えばよい。逆に、なぜみなさんにそういう習慣が少ないのか、不思議に思うこともある。巨大伽藍も、多数の同行者も、それらが無くても目を閉じれば神々と交流できる。
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余は無宗教者か
ということで、無宗教無信仰と言われるだろう余の気持ちには、明瞭な神々がいて、話したくなればいつでも会える。だから、死や人生剥奪への恐怖や悲哀も、目を転じれば辛さが薄まっていき、やがて「ならば、生を愉しもう」と想うようになる。
楽しみさえ忘れることがあるからだ。
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ぼんやりと机上で頬杖をついたり、ベッドから天井を眺めていると、その愉しみが極上のものになり、時々他の愉しみを忘れるということだ。
酒やタバコに類した一般的強烈な楽しみはどれ一つ身近にないが、文学がある、読書がある、映画がある、ジオラマがある、創る楽しみがある。そして旅の愉しみがある。
最近開眼したこと
木製のスッピンの小さな基板(60x30x2センチ程度)に、単純にニスを塗ったり、透明ラッカーを塗ったり、あるいは赤や緑の原色を噴霧して、シンプルな基台をつくる。
漆のような深黒もよいな。
そこにレールを直線で引いて、田舎風の機関車を置く。
建物は、スッピンの駅舎だけでよかろう。
川も山も木々も道路も、岩もなにもない。ただ黒い台に金属のレールがあり、そこをレトロな機関車が走る。
こういうジオラマを創ってみたい。
楽しみだ。
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