小説木幡記:月次な年次なかたぎの世界
毎月きまった行事を月次というが、これは神社に参ればそれが書かれていて、決して「月並み」な話ではない。実は大学も毎年同じ行事があって、これも「年並み」なことではなく、毎年経験する学生は、それが初めてのことであり、指導者側(先生や職員や上級生だな)は、心をまっさらにして接する必要がある。
ただ、月次(つきなみ)という字はあったが、年次(としなみ)という字はなかった。角川類語国語辞典で探してみたが、年中行事という類義語はあったが、これは年間通しての予定を意味し、それが毎年同じように繰り返すという意味ではなかった~
そこで、余は困った。
月次はあっても、日次(ひなみ)とか年次(としなみ)は無いのだろうか。文字はあっても、意味が異なる。困っておる。こういう難問は、図書館のレファレンス・カウンターで聞いて見ないと、答えは出ぬかもしれぬ。
で、以上がまえふりなのだ。
次が本論。
毎年毎年、年々歳々、歳々年々、余は同じようなことを授業や活動で話し方針を示し、動いてきた。人は「それでは、進歩がない」と、安易に申すものもおるが(笑:余は進歩を唱える人達を、蔑視しておる)。原理原則をつかんだら、物事はほとんど自動的に対象自体の則(のり)で動いていく。余がうごくのではない。人や物事が動き出すという事じゃ。それは実に自然な風景である。その自然な動きを阻止して進歩させるのは、趣味としては良かろうが、公事としては博打に等しいことだな。
昨今は、博打打ちが世間に多い。要するに、虚業だな。たとえばネットを使って株金儲けをしようだなんて、アハハッ! かたぎのもののすることじゃない。で、素人さんもそういう考えに染まっておる。これはよくない。みんなして、かたぎに戻ろうぞ。
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