小説木幡記:雨が降ると遺蹟が水浸し
↓京都市伏見港の運河で、本文とは無関係。
1.東京都知事と日本國首相との関係
件の卑弥呼さんは、邪馬台(やまと)国に住んでいて邪馬台国で人望を集めたが、邪馬台国の女王ではなくて、連合国に推されて倭国女王になられた。当時の倭国の首都が現在の奈良県桜井市纒向(まきむく)だった。
と考えるといろいろ納得いくことも多いのう(笑)。
2.運河と船と橋(そして、洪水)
せんだって連休中、三輪明神にお参りした帰りに箸墓を遠望しつつ帰路についた。箸墓は全長280mの巨大な前方後円墳だが、以前2008年の発掘調査では、回りを60m以上の幅で周壕(しゅうごう:とりまく池)が取り巻いていて、それもいれると箸墓の全貌は450mを越す墓域結界の異空間だったことになる。
その後の発掘をみていると、纒向全体が水の都(運河の都)だったことが納得出来てきた。
しかし運河と言えば船と橋が関係し、時には増水による決壊、洪水の心配もあったことだろう。どんな様子だったかはその後の発掘調査、そして研究者や関係者の発表まで待たないと、想像に過ぎなくなってしまうのだが~。
問題は。
いまだに数パーセント(5%)程度の発掘しかできていないこと。中心をJR巻向駅とすると、東西2kmで、南北1.5kmの楕円になる。大都会のような人家密集地帯ではないが、家々とJRと国道がある。発掘調査が難しい。
もう一つは、宮殿跡らしい遺蹟は、JR巻向駅の北側のホームが尽きる頃が現場であって、調査はすでにJR桜井線をどうにかしないと、とどめを刺せない部分が残る。
もう一つは、卑弥呼さんが眠るかどうかはさておいて、箸墓の調査と纒向遺跡の調査とは不即不離の関係だが、これが宮内庁書陵部の管轄地で、どうにもならないことが多い。
3世紀頃、ここをどんな船が行き交い、橋はどんな風にかけられていたのか。古代にも昇開橋(筑後川昇開橋公式ホームページ)があったなら、興味深いのだが。船底の浅い平船なら、橋の高さは数メートルで良かったのかもしれない。
洪水については、纒向は平地なので、一旦水が溢れると高台は山辺の道に登るしかないということだ。つまり宮殿や箸墓が水浸しになる危険性があったはずだ。
卑弥呼の墓(008) 箸墓古墳の大規模周濠確認 (MuBlog 2008.08.28)
卑弥呼の墓(014) 水の都・水上宮殿:纒向遺跡の全貌 (MuBlog 2009.11.22)
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↑JR巻向駅を中心とした、古代纒向遺跡
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コメント
船橋だと思います
明日香には船橋の鎖を繋いだと想定される、リンガの格好をした巨大な石の柱のようなものが遺物として残っているそうです。小さな船を何艘も川に浮かべ、綱か鎖で船同士を数珠つなぎにして、板を載せ、その上を人々が歩いた。
多分、纏向地域は太田微高地の南北には川が東から西に流れていたでしょうね。瑞垣の宮(水垣の宮)でしょうか。
船橋は合理的で、川の水位の変動に強く、船を通過させる時は何艘かの船を綱か鎖から外せば、船を通過させる事も可能です。ただ、欠点は酔っ払いが船橋を渡ると、時折、水死する事でしょうか。
投稿: jo | 2011年5月11日 (水) 07時08分
Joさん
返事がおそうなりました。
一日外に出ていろいろしていると、いちいち眠くなって、すまんこってす。
さて。明日香は時代が新しいですね。邪馬台国時代よりも300~400年後のことですよって。そこにリンガがどうのとおっしゃっても、日本に新幹線が走っておるから、江戸時代もはしっていただろう~あはは、ちょっと言い過ぎましたかな。
で、船橋。すでに三国志の赤壁の戦いでは曹操が船を鎖でつないでいたと言いますから、時代的には、邪馬台国に鐵鎖が輸入されていても、おかしくはないですね。となると、Jo私考もあながち嘘とは言えませんなぁ。
しかしあんまり大きな川でもないのに、なんでそんなことするのかな。箸墓外堀が幅70mあれば船を数珠つなぎにしても意味ありますが、そこなら内堤を創っているはずだし。
当時の纒向の川とか運河の幅は、きっと数メートルが多かったと勝手に考えております。なら、丸太を渡した方が手早いな。
ということで、今日に限ってJo説に叛乱を起こしてしまいました。
投稿: Mu→Jo | 2011年5月11日 (水) 21時24分