小説木幡記:うたた春の夕暮れ
ちかごろうとうとしてMuBlogの筆も進まぬ。事実は現実日常がずっと息せき切った生活なので、じっくり文章を書くことが難しいともいえる。ただそういうよしなしごとの日常は、過ぎていくのであって、繰り返しをしているようで、二度と同じことは起こらぬ。近似から類推は出来るが、日々刻々と初見のことなのだ。
1)都の桜
観桜し写心(Mu流の写真)を撮ろう思っているが、思うにまかせぬ。なにかしら野暮な用が次々とあって、ファインダーを覗く余力がない。今週中に近場のいつもとかわらぬ天神川や大沢池や嵐山を観てこようと思っている。醍醐桜も魅力があるが、さてさて行く気力がわくかどうか~。
2)戴冠詩人の御一人者
今年こそは早め早めに論をまとめていこうと思っていたが、しばらく進んでおらぬ。おもしろさは珠玉のような小品(評論)が数珠のように組まれた図書だから、ただ読んで楽しむぶんには気楽なところがある。しかし先頭にある「戴冠詩人の御一人者」の裾野のような珠玉とおもうと、その解釈の深みに底知れない、冷や汗が出てしまう。
余の好みを順にいうなら、「大津皇子の像」、これは20代前後の余を打ちのめした。「當麻曼荼羅」これが奇縁で折口さんの「死者の書」を読んだ。なにかしら世間とは逆なのだ。「雲中供養佛」近所の平等院鳳凰堂に入り、天井を見上げるたびに保田先生のこの小品を思い出す。「建部綾足」後日に建部という人名が出るたびに頭のなかでこの小品を参照していた。そして~いろいろあるが~「明治の精神」。何も言うまい。
ただ、こういう評論集が日本にあって、当時それなりの賞を受け、そして戦後の余が読み浸った。人に告げなくとも、論立てしなくても、ただそこにあるそれでよいと余の中では完結しておる。
3)Nゲージ
鉄道模型だが。DCCというディジタルシステム導入はHOタイプの少し大きめの車両の方がやりやすい。たとえば、8ピンのデコーダ(一種のCPU)を車両に差し込むだけでよい。
しかしNゲージは、一台一台に、デコーダを積み込む必要があり、それを好きな人にはよいが、余は一両やってみて飽きた(動くには動くが、仕事が下手なので)。
で、小さなNゲージは、現在旧来の手法で、なかなか愉しい走りを見せてくれている。この話は後日。
*)では
夜もふけてきた。じっくり新聞を読んでねむりにつこう。
| 固定リンク
「小説木幡記」カテゴリの記事
- 小説木幡記:楠木正成のこと(2013.06.07)
- 小説木幡記:腰痛と信長(2013.05.28)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント