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2011年3月10日 (木)

小説木幡記:葛野のことは葛野で

Zmuimg_1748 ときどき失敗したと思うのは、自宅木幡からメールを中心にして葛野の仕事をしてしまったときだ。
 それと電車にしろ自動車にしろ、葛野へ出かける前に、その日一日、何をするかをいちいち考えることがあるが、それは無駄だし、考えすぎてホームから落ちたり、ぶつかったりと危険だ。本当に、木幡で葛野の仕事をするのは、精神衛生上よくないとますます思った。

 なんであれ近代都市生活者が組織に関連して仕事をするのは、いろいろな意味で自分自身の疎外を伴い、働くことの充実感と等分に喪失感、疎外感の沼に落ち込んでいく。仕事は尊い面が多々あるが、気がつくと奴隷働き(他人の指示に従って、永遠のむだむだしい作業。プールの水を穴のあいたバケツでくみ出して、完了したとたん、それをまた元にもどすような~)をしてしまい、余の姿は点になってしまっておる。

 だからこそ。
 仕事は仕事、葛野のことは葛野で完結。
 これが理想だ。
 といいながら、つい仕事メールをのぞき込んでしまい、つい返信をしてしまう。

 昔は、新幹線も電信電報電話もケータイもインターネットも、一太郎もワードもエクセルも無かった頃は、どんな仕事をしていたのだろう。江戸時代なら飛脚とか、お庭番が走り回っていたはずだ。
 余が社会にでたころには、電話とペンとソロバンだけが仕事のツールだった。字の下手な余は書類一通を造るのに1日かかった。先輩から、定規をあてて字を書くことを教わった。ホッチキスで書類を留めて、先輩に怒られ「こより」の使い方を仕込まれた。ソロバンが出来ない余は計算間違いはすべて上司にチェックを任せていた(つまり、怒られるのと引き替えに、1回計算したらそのまま提出する。すると、毎回間違いを指摘されて戻される!)。電話嫌いの余は、かかりそうな予感がすると窓を開けたり、手洗いにでた。この「かかりそうな予感」とは実際にあった。なにかしら、ちりちりと身体がするのだ、呼び出しベルが鳴る前に。

 こんな調子でよくぞまあ、何十年も社会生活を送れたものよと、時々自戒しながらもひそかにほくそ笑むのであった。余はとろくさいように見えて、苦手対策の工夫はしておったような~(笑)。
 さて、まだ朝も早い、どんな苦手対策を打つべきか、~いろいろ考えよう。(しまった、まだ木幡じゃ!)

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