小説木幡記:応神天皇陵への研究者立入調査・感想
2011年2月24日に、国内で2番目に巨大な前方後円墳の応神天皇陵(全長420m強、後円部高さ36m、直径270m弱)に日本考古学協会などの研究者16名が立入調査をした。しかし後円部や前方部によじのぼったのではなくて、周壕(ため池のような)をたたえる堤(内堤:ないてい)を歩いただけのようだ。結果、内堤には円筒埴輪が2列に並んでいた可能性が分かった、らしい。
天皇陵や陵墓参考地(皇室に縁が深いと考えられる古墳など)は、宮内庁が調査を拒んできた。平成20年に奈良市の北にある神功皇后陵への立入を認めた。宮内庁が長年、古代陵墓への学術研究を許可しなかった理由は、よく分かっていた。墓は暴くものでもないし、荒らすものでもない。「調査」「研究」とは暴き、結果として荒らすことに近い。以前の風潮として、文化体系が異なったり、政治思想信条に過激な研究者なら、崇敬の念をもてない墓を破壊しても痛痒を感じないだろう。日本の古代史が分かることの意味や意義は、時代や研究者や国民によって異なる。学問と言っても、どこかの捜査機関のようにあらかじめ「すじがき」があって、それとは異なる物は破棄するかもしれない。などと、宮内庁の代わりに考えると、一過的流行のような学問美名のもとに、大切な精神的支柱の根元を掘り起こすのは、ご先祖さまに対して申し訳ない、となるのかもしれない。
今回も先回も、後円部を掘り起こしたわけではない。聖地、敷地内への立入と観察を認めたということだ。しかしそのレベルでも公的には不可能だった研究者達には朗報だったと思う。どういうセレモニーのあとで立ち入ったのかは興味が湧く。余の考えでは、天皇霊を一時的に遷し奉れば、後円部深部まで立ち入っても、それは単なる丘に過ぎぬから大事ないという考えだが。だれも賛同はしてくれぬだろう。
それにしても、先回の神功皇后比定陵墓と、今回の応神天皇比定陵墓とは、いわば河内王朝の母と子との関係にある。なんとなくそれ以前の仲哀天皇を最後とする三輪王権とは切り離された系譜だから、この二つの調査を認めた宮内庁、書陵部の考えとして、興味が湧く。
参考
神功皇后陵の学術調査・見学(MuBlog)
応神天皇陵と二ツ塚古墳の関係(MuBlog)
日本考古学協会
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コメント
三王朝交代説って、まさか信じているんですか?
投稿: | 2011年2月26日 (土) 04時52分
無記名で、一行投稿とはいささか乱暴なので削除するきになりましたが、ちょっとメモを残すことにしました。
1.王朝とか王権とかいう定義はいろいろあるようですが、昔のことはよくわかりません。
2.記紀の物語では、昔の天皇や宮居は代が変わるたびに動いたようですが、古墳のある地域によって、地域の名前で総括するのも便利かと思い私は使って居ます。葛野に古墳や宮居や集結点があれば、後世、葛野王朝とか葛野研じゃなかった葛野王権と呼ぶような意味です。
3.三王朝交代説なるものもよく知らないわけです。そのレベルでの「王朝」ならもっと沢山あったと思います。ただし三輪山麓の関係大王家は特徴がありますから、三輪王朝と私は呼びます。それに続く、河内関係を、河内王権とも王朝とも呼んで、私には分かりやすいです。
奈良時代とか長岡京時代とまとめて呼ぶのと変わりはありません。
4.ただ。記紀が大胆に描くことは、大抵本当らしいのと、三輪山の麓と、河内あたりは、随分景観や雰囲気がことなりますから、系譜上、なにかのねじれがあったと想像しています。
*.あなたは「三王朝交代」じゃなくて、神武さんからずっと橿原にすまれていたとでもおっしゃるのかな(笑)。そのようにまとめても、昔のことだから、ようわかりませんなぁ。
投稿: Mu | 2011年2月26日 (土) 09時25分