小説木幡記:魂の不滅ということ
信仰心がないまま馬齢を重ねたが、ちかごろふと「魂」について思うところがあった。霊魂不滅とか、霊能世界とかよくテレビや雑誌で話題になっているが、大抵は人の弱みにつけ込んだインチキな商売が多い。それにころりと騙されるのはよほど悲しんでいるとか、苦しんでいる人にとっては、なにか速攻の救いがあると聞けば、お金に糸目を付けずに楽になろうとしてしまう。勿論、人にもよる。病気の末期症状の人がそういうことにすがりついても、なんとも言いようがない。
さて。
話がそういう世相批判に行きかけたが、本旨はそうではない。「魂」について。それは自分の「心」ではないかと、さっき気づいたのだ。何を今更とおっしゃるな、諸兄姉。要するに余は長年、死んでしまえばすべて終わりと思っていたし、今もそう考えておる。
しかし。
勿論、幻想幻視をもたらす分子生物学的脳の分析とか、心理学的、SF的、超常学的に心のことを捉えるのではない。
単純に、「今ここにいる余が父や母や祖母の笑顔を思い浮かべる。すると、死んだ両親や祖母は、今余の心の内に生きている。その魂も輝いている」と、いうことに気付いた。「なーんだ、そんなことか。だれでも死んだ人を思い出すよ」と、これまで余は安易に考えてきた。なれど今、余は悟った。「そのことが、霊魂不滅の意味である」と。
少なくとも、余が生きていて、両親や祖母を思い浮かべ、ともに過ごした日々を懐かしみ、いまだに「祖母なら、このことについて、どう言うだろう?」「父なら、この場合、助けてくれるか、自分でやれと言うか?」と考え続ける限り、彼らの魂は余の深奥にて不滅である。
魂をもう少しわかりやすくメモしておく。生き方、考え方、感じ方、話し方、対応の仕方、そして具体的に母の化粧の匂いとか、祖母の髪油の匂い、父のひげそりあとの感触や手触り~それら全部をまとめたものが、その人の「魂」だと、余は分かった。
余が生きている限り、余の中で、魂は不滅なのだ。
実に単純なことだと、分かった。
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投稿: 浅草@美容室 | 2011年2月25日 (金) 21時30分