小説木幡記:2011/01/13(木)変わらぬ人の質や苦悩と就活愚祭
人も我もお互いに大きな迷惑を掛けない限り自由に生を愉しめばよいと常々思っているが、それにしても人ごとながら、どう考えても気持ちの収まらぬことがいくつかある。
1.内縁妻の連れ子を虐待する無職男
うそかまことか、牡ライオンは、牝ライオンの連れ子を食べるらしい。このTV画面を見て内心ウッと思ったが、人間のなす児童虐待にも同じパターンがあって、しかし人間らしいというのか、大抵はどうにもさまにならない男にそれが多い。さまにならない男がすることと言えば、児童虐待か同居女性虐待と、行き着く道は同じだ。ようするに、自らを反省すると弱すぎて自壊するから、暴力的に自分より弱い者へ鬼畜の振る舞いをする。
こういう事件が繰り返し繰り返し繰り返しひつこくくどく繰り返されるのは、人間心性構造原理に、「むしゃくしゃしたら、弱い奴に嗜虐的に振る舞え」というパターンが織り込まれているのだと思う。だから、これを大人になっても露出する者を矯正するのは無理だから、人類史のあみ出したハムラビ法典の、目には目を、歯には歯をしかない。ある海外SF小説にあった方法は、被害者の受けた苦痛絶望憤怒悲嘆などをすべてシミュレートした物語を加害者の脳に電極を刺して直接体験させることだ。大抵は、二度と同じ犯罪をしなくなるが、もっと大抵は加害者が人格崩壊を起こすので、その未来社会では禁止された刑罰になった、と覚えている。
数日前の児童虐待した26歳の無職男は、内縁妻27歳の連れ子3歳(か2歳)に回し蹴りをして両足骨折をさせ、さらにその両足を踏みつけたようだ。こういう男は、しのごのいわずに、プロレスラーの練習相手にさせるか、まな板状石板の上で正座して石を抱かせる拷問か、あるいは電極をさしこまないと治らないな。
2.就職と餓死
人類史はある時期から都市生活を主流のものとした結果、そのために就職出来なければ餓死をまねくという過酷な様相を呈してきた。餓死とは簡単に「喰う物を入手できない」「金がないから食物を入手できない」つまり栄養補給が出来なくなって死亡することを意味する。喰う物を自給自足する練習をいつのまにかしなくなり、お金を得て食べ物に変える技を人々は学ぶようになった。
いまさら水田でお米をつくる辛抱とか、毎日漁にでてぶり大根をとってきたり、野山ですき焼き肉を探させたり~を多くの人にさせるのは無理がある。手っ取り早く組織に就職して給料をもらって、それでスーパーやコンビニで食料に交換して、餓死を免れるのが主流となってしまった。
どうにも我慢ならないのは、そういう生きる基本の技を得るために「就職」という関門があって、それは万人に用意されているわけじゃないということだな。書類を整理できて、英語を話せて、活動的な若者が求められているとか、~ふん、馬鹿馬鹿しい。余などそのどれ一つまともに出来ぬ! 整理整頓まったくだめで、現代日本語にもおぼつかなく、いっつも不活動的に部屋でじっとしておる。
それと就職先にも序列があって、就職したい人の心性にも「こんな所で、勤めるのはプライドが許さない」となったり、就職先にも虐待癖のある組織があって、「使用人や部下を消耗品扱い」する組織も多い。どっちもどっちで我慢ならない。
要するに<就職>と<餓死>とが直結する社会は歴史的にまだまだ勉強がたりないというか、練度がたりないというか、未熟な社会なのだと思った。じゃどうすればよいのか~。おもしろくてもおもしろくなくても、似合っていても似合わなくても、自分の食べる物を自分で作り出す教育が必要なのだろう。未熟社会組織に依存せずに、自給自足できる方法を各人が習得すれば、就職就活なんて馬鹿馬鹿しい愚祭に人生を賭ける必要もなくなる。
余は水耕栽培で一人一人が一年間の備蓄をもてて、日々自活できる世界を夢想しておる。まず瞑想が必要だな。すべてはそこから始まる。
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