小説木幡記:2011/01/12(水)過ぎた時の行方:時圧なき地
この日々過ごしていると日々時が過ぎていく。感覚的には肩を飛び越えて背中の後ろへ時が飛んで行く。そこで、飛んで行った時はどこへ行くのだろうか、あるいはこれだけ日々時が飛んでいくと、その行き着く場所は時だらけになって、時が溢れていはせぬかと、想像し、にやりと笑う。
本当のところ、時はどこへ行ってしまったのだろう。
消えたのか溶けたのか、飛んで行ったまま永遠にどこか行方不明になってしまうものだろうか。いや、時は物とか事とか扱われるたぐいの物ではなかろう。水のように時があって、その「時中」でじっくり眠っていると時が飛んでいるとは気付かぬが、余が目覚めて動き出すと時の抵抗、つまり「時圧」に気づいて動く邪魔をする。あんまり早く動くと時圧で口中が一杯になって息が出来なくなる。かと言ってじっとしていても、空の星や月や日は動いていて、弱い時圧を感じる。だから、時は余がじっとしていても、走っても、時中にいるかぎり時圧があって、動きや行動に制限を与える。
ならば、時中から抜け出たとしたらどうだろう。
魚が水中から抜け出すと、トビウオみたいな例は特殊で、普通は息が出来なくなって息絶える。うちの金魚もそうなるだろう。しかし人間が水中から飛び出すとやっと息ができて、生き返る。人間が時中から飛び出すと生き返るのか息絶えるのか、不思議に思う。
きっと、瞑想すると時中から抜け出ることがトビウオ程度には出来るのだろう。
そういう哲学的な雰囲気に近くなくても、「死」が時中の外にあるだろうとは容易に想像できる。死は時に恐ろしく悲しく、時に唯一最高の帰路なき逃避だが、時外であることは確実だ。
もとより戻ってこられない道はたどり行かぬが賢明なり。
さすれば。
じっくりと、じっとりと、この時圧を楽しみ、時中で軽やかに息することを学び練習することが大切だ。
こころして、時圧を全身でうけとめようぞ。
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