小説木幡記:2011/01/28(金)奇妙な習慣:ロボットにはなりきれない余なり
一泊旅行にでかけるのでカバンに寝間着やもろもろを詰め込んでいる間に、奇妙なことを自覚した。わずか一泊で何冊も本を読めないし、そんな時間もないはずなのに、厳選して3冊が詰め込まれた。小型本とは言っても重い。
USTREAMがメディアを変える/小寺信良(ちくま新書)
鉄道模型趣味 No.819
戴冠詩人の御一人者/保田與重郎(新学社の文庫)
これらが実はというか普通に言ってすべて「紙の本」なのである。iPad には小説や諸々が一杯詰め込まれているのに一泊旅行に持ち歩こうとはしていない。何故か、それを考えて、奇妙なことに気付いた。つまり余は紙の図書の重さにはある程度我慢できても、iPad の重さやかさ高さに我慢できない。もちろん、とは言っても昔のノートPCやMacBookに比較すると、それらが2kg前後なのに、iPadは800g程度しかなく軽い。なのに重いといって持ち運ぼうとしない。
疲れているわけじゃない。ときどき贅沢な気分になって、紙の図書を習慣的に一枚ずつ捲って読むと豪華絢爛な知の世界にひたった感覚に包まれるのだが、人や自分が車中やホテルや研究室で、キーボードや指先をしゃかしゃか動かしているのを想像すると、とてつもなくみじめで貧乏臭い、猿猿しい思いに襲われるのだ。
「あほちゃうか」と呟いてしまう。
それもまた、何故か。
長いことそういう機器に引きずられて人生の大半をすごしてしまったから、そのことで得た益には感謝と感慨とを味わいながらも、それはもう生きるすべとして、ある意味でしかたないことで、決して人様にみせることでも言うことでもない楽屋裏のような気がしてくる。
だから、せめて一泊旅行するときくらいには、豪華絢爛な紙の図書をゆったり読んで、落ち着いて眠りたいものよ、と思ってしまうのだ。
今年の春に、電子書籍と紙の図書について、同僚の情報メディア系研究者と相乗りで講演する。ずっと人前で話したりしたことはないのだが(ああ、授業はあれは、べつ(笑))、せっかくiPadを昨年入手したのだから、現代先端機器と、20年前の「電子図書館の夢」とを比較して、ムカシガタリをしようと思っている。だから、今日くらいは紙の図書をカバンにいれて、持ち歩くつもりなのだ。
人は、~、人はロボットではないと、痛切に自分を振り返って思った。
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