小説木幡記:2011/01/30(日)嵯峨野のこと(京都市右京区)
常寂光寺で見た「藤原定家卿山荘跡」碑↓
今朝の宇治市早朝外気温は-3度cだ。ぶるっとする。寒い脳。しかし日曜だから今日の行事は簡単な買い物とガス警報機メンテナンス待機と夕風呂と大河ドラマ江と、睡眠だけとなっていて気楽だ。日曜日もお仕事のみなさんは大変だろうな。古来宮仕えというかサラリーマンは気楽な稼業ときたもんだぁ~ほれ! と歌に歌われたくらいの哀感世界だが。人がぼんやりしているときや遊んでいるときにせっせと仕事をするのは、辛いこともある。余は怠け者の節句働きといって、人が一休みしている頃になるとせっせと働き出す天の邪鬼だが、人が遊んでいるときに働く仕事はそういうものではない。
京都市右京区嵯峨野について、それほど熱心に考えたことはなかった。というのも、幼稚園、小学校が嵯峨野そのものにあって、中学校と高校は離れていたが、いずれも自宅からはすぐなので、大学を卒業するまでは相変わらず嵯峨野一帯が散歩道、自転車回遊地だった。ということで、嵯峨野は小学校の帰りに友達の家によったり、授業時間に嵯峨野を教科で散歩見学したりで、混み合った嵯峨野はあまり知らない。いや、知ってはいるがそれは日曜連休は混むから近寄らないように、という注意事項としてのことだ。
いまでも桜時や紅葉時は、早朝とか夕方しか嵐山・嵯峨野へは行かない。人がいない所に風情があって、闇に紛れた景色の中に安定を得るのだから、嵯峨野は観光地であるよりも「心の故郷」なんだと思っている。幼稚園が嵯峨幼稚園で、小学校は嵯峨小学校だった。幼稚園は車折から電車に乗って終点嵐山下車。小学校は徒歩で片道30分程度だった。
藤原定家卿がどうしてこの嵯峨野付近に住んだのかをしっかり学んだわけではないが、山荘・時雨亭は写真の常寂光寺境内付近にあったという伝説のようだ。この辺り一帯には落柿舎があって、近くには西行庵伝説があって、滝口入道伝説や祇王・仏御前伝説があって、賑やかである。来年の大河ドラマ平清盛になると、日中は歩けなくなる、かな? それまでに春になったら折々に訪ねて蕎麦でもいただきながら散歩して写真を撮ろうと思っている。なにかしら悠々自適伝説を願ってのことだが、いやはや心中は「会議会議会議授業授業授業」で、そんな伝承の生まれる余地もないなぁ。
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