小説木幡記:2011/01/03(月)好奇心の衰えか偏向
好奇心がないわけではないが、以前にくらべると少なくなった。多くのことが既知となり、いまだ既知となりえてないものは、無視とくる。「そんなこと、知りたくもない」という内奥セリフと同時に「そんなこと、飽き飽きした」がいつも胸の底からわき上がってくる。
ただ~
この倦怠感は、アンニュイはいつかいつでも味わってきた気持ち。少年期も青年期も同じ。バイクに乗っているとき、自動車に乗っているとき、電車やバスに乗っているとき、ときどきそうしていることが邪魔くさくなって、飛び降りたいと思った記憶が沢山残っている。もちろん、死にたいと思ってとびおりたいのではまったくなくて、運転操作があるいは電車に座っているのが「ああ、邪魔くさい」と、邪魔くさい病に追い詰められて、じっと電車に乗っていたり、ハンドルを握っているのが嫌になって、「飛び降りたい」と思う気持ちだ。
いやはや。
だからこれほど読書好きなのに、ときどき図書を破り捨てて火にくべたくなる凶暴な思いにおそわれて、「ああ、かったるい」と叫んでしまう。映画館に座っていて、時々駆けだして、外に飛び出てしまう。だから、会議にでたり、講演会にいく人の気持ちが信じられない。30分も一時間もじっとすわって他人の退屈な話を聞くなんて、修行の極みだな。そんなこと知識に組み込んでどうするの、あんたさん。よほど人間ができた人じゃないと、人の話なんかまともに聞けないよ。ましていわんや話のかみ合わない他人たちと論争するなんて、おや、猿のケンカにまきこまれるようなものだよ、な。
もしかしたら。
こんな風に考える余はちょっと常道から外れているのじゃなかろうか。余は学習障害ではなかろうか、と、不安になった。これだけ「ああ、いやだ、いやだ、じゃまくさい」と思いながら長く生きてきたのは、よほどおかしいのじゃなかろうか。
そうなんだろうきっと。
だから今年は、おかしいことを治して余生をおくるか、このまま自然におかしいままに、いやそれをまともと思って余生をすごすか、一度じっくり考えてみよう。
下手な考えは休むに似たりというが、しかしなおよく考えることでこの世がくっきり見えてくることもある。この世を正確に把握するのは、ぼんやりみているよりも、好奇心を刺激する脳。うむ、新年の心構えがようやく固まってきた。
よい正月であるぞ。
追伸
好奇心が薄まったと思う割には、鴨なんば蕎麦とか、気に入ったラーメンとか、食べることには相変わらず胸がおどる。まだまだ、食べるのが邪魔くさい! とまで言わないのは、健康な証拠じゃろう。
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