小説木幡記:2011/01/20(木)語る気安さ、受講拷問
今朝の宇治市外気温は3度cだから少し温かい方だ。数日前に記したが、これがマイナスになるとさすがにこたえる。まずまず宇治市は温暖地なのだと、ずっと感じてきた。
まず無線Lan
昨日は葛野で古い無線Lanの調整をした。古いMacBookで使えるようにしたかったのだ。結果はうまく行ったが、従前順調に動いていたのを何かの拍子にリセットしてしまい、それからが大仕事だった。
すでにマニュアルも亡失した古い機械だったので、ネットの世話になった。国内メーカーサイトを見てみたが、カタカナだらけのほとんどまったく異国の言葉で説明が書かれていた。しかも機種番号順に微妙に方法が変わっていた。ああいう世界がともかく維持されて日本中(世界中か?)の老若男女がそれを使っているのが奇跡に思えたな。余の場合、なんのことはない、無線Lanに書かれた室内・構内アドレスにアクセスし、そこで勝手にパスワードを書いて、それを無線接続の時に使うという手前味噌的単純なことだったが、気がつくまで、方法を思い出すまでは、まるっきり言葉の通じない異世界気分だった。これだから、IT世界はええかげんに嫌になる脳ぉ~。
さて一昨年までならこういうストレスを伴う暗中模索状態の時は大抵ライターとシガーの世話になるところだが、今や復縁流(正確には:副流煙かな)禁止になって久しいので、100円のアタリメをしがしがと口の中で噛んでおった。これも気をつけないと塩分があるから高血圧になると、危険信号がちかちかするが、アタリメ数本をたまにかじったくらいで死ぬことはなかろう。で、頭の中ではLanもMacもなくて他のことを考えておった。
語る語り
どういうことかというと、語るのと語りを聞くのと、人によって使い分けをしている人もおるが、大抵の人はどちらかに分類できるのじゃなかろうか、という推測である。事例をはばかりなき自分にすると、語るのが好きな方だ。講演会に滅多に行かないのは、人の語りを聞くのが苦痛だからだ。逆に、「語れ」と言われて講演会に行くのは気楽なことが多かった。準備や緊張はあったが、語り出すとあっという間に責務を果たしていた。だから、授業が嫌いじゃないのだ。要するに職業教師は語るのが好きな方が、気安くできる。
そこでまた、人の話を聞く聞かない問題になるのだが、~。これは別種のことなので、いずれ別の機会に考えてみよう。部屋に閉じ込められて身動きできないように、いましめをかけられて講演を聴くのと、対面する人の話を聞くのとでは、自由度に大きな違いがある。
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